少女・十四歳の原爆体験記

http://www.koubunken.co.jp/home.gif少女・十四歳の原爆体験記【立ち読みコーナー】

著者
橋爪 文(はしづめ・ぶん)
1931年1月、広島市に生まれる。14歳で被爆日本ペンクラブ日本詩人クラブ、戦争に反対する詩人の会、新歌曲21などに所属。
詩集『昆虫になった少年』『乗り捨てられたブランコのように』『海のシンフォニー』、詩とエッセイ『不思議な国トルコ』(いずれも私家版)
作詩:合唱組曲「星の生まれる夜」(萩原英彦作曲)「昆虫になった少年」(安達弘潮作曲)「永遠の青」(中島はる作曲)「春の詩」(矢田部宏作曲)「少年の詩」(平吉毅州作曲)「虹よ永遠に」(中村雪武作曲)「月の光」(中村雪武作曲)「組曲ひろしま」(青英権作曲)「早春」(玉井明作曲)など。他に歌曲・合唱曲の作詩多数。


あとがき
 私がこの体験記を書いたのは一九九五年、被爆五十周年の年でした。
体験記を書くということは、あの当時の出来事を再体験するということにほかなりません。病弱で多感な少女だった私が、体験を文字にできるまでには五十年の歳月が必要だったということかも知れません。
体験記の執筆に踏み切るまでには、本文にも書きましたように、ニュージーランドの著名な女性作家、エルシー・ロックとの出会いがありました。原爆について書いたり話したりすることに消極的だった私に、エルシーは繰り返しこう言ったのでした。
「あなたは書かなければいけない。話さなければいけない。私たちは体験者一人ひとりが表現することをつなぎ合わせてしか、事実を知ることができないのです。あなたたちが書いたり話したりしなければ、人類史上もっとも重大なことが歴史の暗部に埋もれてしまうでしょう」
八十一歳の彼女の澄んだ目が、するどく私を射ました。私はそのとき、原爆に遭い、原爆から生き残った一人としての宿命と使命を痛感したのでした。

たしかに私は、原爆によって生命の原点を見ました。原爆がいかなるものであるかを、身をもって知りました。そして、地球上に生起する戦争、難民、飢餓、差別などさまざまな悲惨を、原爆被爆者としての痛みを通して見つめてきました。
しかし、それでもなお、被爆者の多くがそうであるように、とうてい他者とわかちあえない痛みを胸の底深く抱いたまま、土に還るつもりでした。
そんな私が、被爆五十周年を機に、原爆について国の内外で話したり、書いたり、また自作の詩による演奏会、ラジオ、テレビでの放送などいろいろなかたちで原爆被爆の状況を伝えることになりました。この体験記の執筆もその一つになります。さらに、私のヒロシマの詩や随筆が、英語、ドイツ語、スウェーデン語、ロシア語などに翻訳され、私はそれらの国ぐにで原爆について話しながら海外ひとり行脚をはじめたのでした。
そうしたなかで、私が強く感じるのは、これは私の力ではなく、あの日、またその後、尊い生命を失った三十万とも四十万ともいわれる(日本政府は確実な調査をしませんでした)人びとの魂が、私を通して「ノーモア・ヒロシマ」を訴えているのではないか、ということです。
原爆投下は〝人体実験〟でした。核兵器の破壊力や、放射能の万物に与える影響を調査するためのものでした。そして何よりも、戦後のアメリカの軍事的優位を確立するための暴挙でした。にもかかわらず、原爆投下によって大戦が早期に終結し、日米の多くの生命が救われたという大義名分にすりかえられました。
このことによって、その後の核兵器についての判断に大きな過ちが生じたと私は思っています。

ヒロシマナガサキは、核の時代の出発点でした。アメリカのみが厖大な資料を手中にしての出発点でした。しかしアメリカは、自国史のうえに〝負の遺産〟を刻んだことを知らなければなりません。世界で唯一の超大国アメリカは、人間が人間のうえに原爆を炸裂させた世界で唯一の国でもあります。
大国の核抑止戦略、核に対する信仰は、不幸なことに二十一世紀に持ち越されました。
しかし一方で、世界中の多くの人たちが、英知と情熱をかたむけて、核による破壊と汚染から人類と地球を守ろうと努力をつづけています。
私もその中の一人として、わずかでも力をそそぎたいと思います。
原爆の後の地獄の中で、十四歳の私が見たニンゲンの原点。みじんの尊厳もなく、潰えさせられた「生命」とは何か。
一方、かろうじて生命をささえ生きていた人間たちの「生死を越えた」ところにあった崇高さ。
その原点に立ち、生命を見つめ、人間を信じていきたいと思っています。

ところで、この原稿を書いていた当時、母はまだ健在で、いっしょに暮らしていました。母は記憶力もすぐれており、私の記憶がおぼろな点や疑問の点については、一つひとつ母に尋ね、確かめながら書きすすめていきました。
ただ、二つのことだけ、お断わりしなくてはなりません。それは、第1章「太陽の落ちた日」に出てくる「ミヨちゃん」と、第3章「母と弟」に登場する「めぐみちゃん」は、いずれも実名ではないということです。
「ミヨちゃん」の方は、顔、姿は思い出せますが、名前はどうしても思い出せませんでした。そのため、記憶の中の語感で「ミヨちゃん」とさせていただきました。
また「めぐみちゃん」については、広島滞在が短かったこともあり、母や姉、叔母に尋ねても、「さあ、何という名前だったかしら」とくびをかしげます。私はふと思いついて幼なじみの小林夏子さんに電話をしてみましたが、やはりわかりませんでした。そこで、幼い女の子の不憫な死を思い、「めぐみちゃん」と名づけさせていただきました。
今回、出版に当たっては原稿を読み直しながら、かなりの部分を加筆しました。現在、母は亡く、そのため私は叔母や姉、そのほか幾人かの友人たちに電話で確認しながら、時間をかけてペンをすすめました。友人たちもあの日のことは鮮烈に覚えていて、多くの話を聞きましたが、それらをすべてここに書くことができないのが残念です。

五歳のときに大病(腸カタル、肺炎、ハシカを併発)で生死の淵をさまよって以来、病弱だった私は、医師から、九歳まで、次には十二歳、最後は二十歳までしか生きられないだろうと告げられていたそうです。その私が今年、古希(七十歳)を迎えることができました。
これは、父母、とくに母の並々ならぬ愛情と、そして多くの人の支えと愛のおかげです。本文中にある友柳さん、飯田さん、日赤病院の山崎先生、難病や注射のショックから救ってくださった東京逓信病院の小堀先生、その小堀先生を紹介してくださった広島逓信病院の蜂谷先生……。私は、今は亡きこうした人たちによって生かされてきたことを噛みしめ、与えていただいた生命を大切に生きていかなければと思っております。

この本は、反核平和運動家でロバート・D・グリーンさんと親交のあるNPO法人ピースデポ代表の梅林宏道さんが、たいへんお忙しい中、原稿をお読みくださり、高文研にご紹介くださったことから出版の運びとなりました。多くのご助言をいただいた高文研代表の梅田正己さんとともに、深く感謝申し上げます。
この本が、一人でも多くの人びと、とくに次代をになう若い人たちの手に渡り、人類の一員として何をなさなければならないかを考えていただく一端になればしあわせに思います。

二〇〇一年六月
橋 爪  文

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