現代史家・田辺敏雄

 日本のはるか南方5000キロ、ニューギニア東部を舞台にした3年におよぶ戦いで、日本軍はおおよそ16万人の将兵を失った。その多くは餓死、マラリアなどによる病死で、生存率はわずか6%程度といわれている。一方の米豪連合軍の戦死者は1万4000人を数えた。

 戦死者の数だけを見れば勝負は一方的に見える。たしかに一方的な戦いには相違なかったが、最悪の条件下にあって日本軍は今日からは信じられないほどの粘り強さと勇敢さを発揮した。当時の記録を読むにつけ、悲劇というにはあまりに多くの犠牲をはらうことになったこの戦いに、今の平和のありがたさを思わずにいられない。

 この戦いから教訓を得ることは大切と思うが、だからといって苦難の中で戦った将兵を指弾する理由があるとは思えない。

 ところが、これら将兵に対するかつてない最大級の侮辱が、ほかでもない日本の報道機関によってなされた。ここには「従軍慰安婦」問題などと同様、愚かにして根の深い構図がまたも露出していたのである。

補給を断たれた東部ニューギニア


 ニューギニア島のほぼ中央部に、国境線が南北一直線に引かれている。国境の西側がかつてのオランダ領ニューギニアであり、東側が英連邦の一員、オーストラリアの支配する東部ニューギニアであった。西部ニューギニアは現在はインドネシア領、東部ニューギニアラバウルのあるニューブリテン島などとともに昭和50年、パプアニューギニアとして独立国家となった。

 昭和16(1941)年12月、米英蘭に宜戦布告した日本は、翌年1月にマニラを占領し、次いでラバウルシンガポールを攻略、まさに破竹の勢いであった。

 開戦半年後の昭和17年6月、赤城など主力空母四隻を失う連合艦隊ミッドウェー海戦での大敗北は戦局の一大転機となり、南方方面の日本軍の計画がすべて後手に回ることになり、苦況の時期を一気に早めることになった。8月には米軍のガダルカナル島上陸を許すなど、ソロモン諸島を中心に攻守所を変えたのである。東部ニューギニア方面においても月日の経過とともに米豪連合軍の反撃は熾烈となり、制空権、制海権ともに相手に移っていった。

 昭和17年11月、第十八軍(司令官、安達二十三中将)が新設され、東部ニューギニア方面を担当することになった。ラバウルに司令部をおいた十八軍は、18年初頭からラエ、サラモア地区を強化し、同時にワウ攻撃を果たすため、第五一師団の船団輸送を開始(十八号作戦)、損害を受けながらもラエに上陸、海軍第二特別根拠地隊もウエワク上陸を果たした。つづく作戦により、軍の主力兵団である二〇、四一師団は幸運にも無傷でウエワクに上陸する。だが、日増しに輸送は連合軍の航空兵力に阻まれ、八十一号作戦(18年3月)では「ダンピール(海峡)の悲劇」と呼ばれる惨憺たる敗北があった。

 輸送船による輸送作戦はほぼ途絶え、駆逐艦に頼らざるをえなくなる。さらには、駆逐艦も使えず、わずかな潜水艦輸送が唯一の手段という事態にまで追い込まれてしまう。

 制海空権を握った連合軍は、北東沿岸沿いのラエ、サラモア、フィンシュハーフェン、マダンを攻略、補給の途絶えた日本軍は「喰うに食なく、射つに弾ない地獄の戦場」を余儀なくされ、雪の積もる4000メートル級のサラワケットを越え、あるいは沿岸沿いを西へと二本の足をたよりに敗走がつづき、アイタペ戦へと地獄の苦難がつづくのである。

週刊朝日』が伝えた究極の残虐


 『週刊朝日』(平成9年10月17日号)の吊り広告を目にしたのは東京の電車内であった。またかと思いながら手にとると、見開きの右ページに「ニューギニアで旧日本兵が行った残虐」とあり、左ぺージは「母は、この飯ごうでゆでられて……」と特大の文字が躍っている。

 写真はといえば、「数えきれない日本兵と性交渉をさせられた」とうつむく女性2人と、「母親が日本兵にレイプされ、食べられた現場を見た」と証言する男性。男の膝元にはゆでたという飯ごうが写っている。写真と文はジャーナリストと肩書のついた須藤真理子とある。

 「日本軍による被害別登録者数」という次の表(一部省略)を見て欲しい。

http://ironna.jp/file/w480/h480/5861e0ab059e0ab4a4e4b3d5df403318.jpg


    







よくもまあ並べたものである。これらの日本軍による現地人の悲劇の大半は、昭和19年8月の「アイタペの決戦」以降の1年間に起こったという。

 「記者は今年8月、現地で戦争被害の究明と補償問題に取り組むガブリエル・ラク氏と、彼の運動を支援する『日本カトリック正義と平和協議会』所属の修道女、清水靖子さんらと1週間、かつて日本軍が立てこもった山間地に点在する奥地の7村を訪問」したとし、約20人の被害者や目撃者をインタビューしたという。

 ウエワクから車で5時間のクンジキニ村では、当時20代後半だったという男性が、『その日の午後、長兄は日本兵に命じられてサゴヤシを取りに行きました。翌朝になっても戻らないので、日本兵が兵舎にしていた教会に様子を見にいくと、日本兵はみんな寝ていました。台所でナベが火に掛けてあったので、フタを開けてみると人肉で、兄が食べられたとすぐにわかりました。肉がこそぎ落とされた兄の骨を集めて持ち帰り、埋葬しました」と証言し、またウエワクの集会で70代の男は、「日本兵にブタを持ってこなければ母親を殺すと脅かされたので、ブタを工面して持っていくと、日本兵は母親をレイプし、殺しました。それも胸だけをカットして、ゆでて食べるという方法です。母は出血多量で死ぬまで、そこに放置されました」と200人の前で話す。

 別の村では「日本兵の宿舎でセックスの相手をさせられました。……約10人ぐらいの未婚女性がいましたが、疲れてできないと拒否して殺された者もいる。第一キャプテンの名はウエハラ、第二はワギモトでした。……」という3番目の女性による証言。

 このような悲惨な体験が語られるようになったのは、ラク氏が「日本軍による戦争被害に補償を求める会」を1994年に結成してからだという。氏は日本のボランティア団体、研究者、弁護士によって開催された「戦後補償国際フォーラム」に参加するため同年に来日、「日本軍の命令でパプア人約100人が虐殺されたチンブンケ事件を証言」する。

 チンブンケ事件については後述するが、信じがたいことだが氏の母親が同事件に関連したレイプの被害者だったというのである。

 そして、「アジア各地の犠牲者のグループと交流し、いろいろと学びました。自分だけでなく、たくさんの被害者がいる東部ニューギニア全体の被害を調査してみようと思ったんです。韓国の元従軍慰安婦の人たちの存在に勇気づけられた」のだと説明する。

 ラク氏は帰国すると運動を開始。地元のラジオと新聞で日本に補償を要求するため、戦争被害を登録するように呼びかけた結果、登録者が激増したのだという。

 ニューギニアでの日本軍の人肉食について記述した『知られざる戦争犯罪』の著者、田中利幸メルボルン大学教員は、食べられたと見られる豪州兵の死体について記した豪州側の約100のレポートのなかに、「わずかだが現地の人たちの人肉食被害が出てくる。現地の人たちについては集落のなかでの出来事なので、むしろ目撃者が多かったのでは」とコメン卜している。

 以上が『週刊朝日』のスクープルポの概略であるが、被害登録はこの後も増えつづけ、10万人を超えてしまったようだ。〝被害者〟の証言について、ごく常識的な疑問を抱く読者も多いと思うが、先に話を進めたい。

ウラをとらない報道


 技術史が専門の奥村正二氏の『戦場パプアニューギェア』(中公文庫、平成5年)の次の文章をお読みいただきたい。著者は大正2(1913)年生まれ。兵役の経験はないようだが、戦跡を歩いたうえでの著作である。

 「戦後四十数年して、朝鮮人従軍慰安婦問題と日本政府の係わりが明らかにされた。だが、ニューギニア戦線には無縁のことである。東部にも西部にも慰安婦は一人もいなかった。(略)兵隊とパプア女性との間には性的接触が全くなかったようだ。これに類する話は聞いたことがない。当時のパプア女性は例外なく熱帯性皮膚病に侵されていた。そのうえ蚊除けのため特異な臭いの植物油を体に塗っていた。これらが、兵隊除けにも作用したのだろう」

 従軍慰安婦の記述については今回のテーマと関係ないので省略するが、『週刊朝日』とは正反対なのである。かたや慰安婦はゼロ、性的接触は皆無といい、一方は性奴隷/慰安婦1万2718人、強姦殺害5164人というのである。

 どちらが正しいにしても、こんなバカなことがあるのだろうか。ごく普通に取材をすればこんな違いが起こるわけがない。故意でないなら、どちらかの取材に致命的な欠陥があるとしか考えようがない。

 平成10年7月、ラク氏一行が日本政府に補償を求めるために再来日した。待ってましたとばかりに朝日新聞は、「旧日本軍被害の補償求め来日」「パプアニューギニア民間代表団」という三段見出しで次のように報じる。

「当時の日本軍の食料不足を背景に、少しずつ被害状況が明らかになってきた」とし、「少なくとも7748人が殺され、1万6161人の女性が慰安婦とされた。さらに2388人が人肉食の被害にあったという」と。

 さらに一行の帰国に際しても、朝日は社会面の真ん中に五段分の囲み記事で報じる念の入れようであった(8月3日付夕刊)。

 「南太平洋の声届かず」とタテに大きな活字、ヨコには「戦後補償求め3カ国から来日」「外務省に『生き証人信じて』」と書いている。

 3カ国というのはパプアニューギニアのほかに、マーシャル諸島ミクロネシア連邦のことである。そして、「際立ったのが、パプアニューギニアで進んでいる被害調査の最新データだった。犠牲者と生存者、遺族合わせて被害者が約9万5000人にのぽり、人肉食の被害が二千三百余人、約6500人が強姦殺人……として驚くべき具体的な数字を次々と提示して、政府側に補償を迫った」とする。

 国会議員の仲介で政府との会合が実現したが、外務省、内閣外政審議室、アジア女性基金の反応は『いまひとつだったといい、引率役の高木健一弁護士が「人肉食など日本軍が記録するはずがないじゃないか」と反論したことなどを報じている。

 高木健一弁護士といえば朝日新聞同様、「従軍慰安婦」問題で大活躍したお馴染みのご仁である。

 紙面のトーンは明らかに補償を認めない日本政府が不当と言わんばかりである。大量の人肉食、強姦殺人などが事実かどうかという視点などまるっきりない。日本側のウラ付け調査をする気など、はじめからなかったに違いない。

日本側の反論


 陸軍では二〇、四一、五一の各師団の将兵から、海軍にあっては主だった部隊から偏りのないように人選し、直接会い、あるいは電話、書面による聞き取り調査を行った。31人から回答を得ている。

 回答にほとんどブレはなかった。慰安婦、強姦殺人については完全に一致した回答が得られ、人肉食については多少のブレが見られたものの、小さな違いにとどまった。今回の報道に対する反論を2、3紹介しよう。

 「之が日本の一応一流と目されるマスコミのする事かと驚きあきれるばかり、腹だたしい限りです。ニューギニアの苦難の中で戦って来た私共戦友達の目からは許し難い出鱈目報道と嘆かはしいばかりでなく、之が何も知らぬ一般読者に与える悪影響が憂慮される次第です」と書くのは黒崎薫氏(五一師団、終戦時大尉)である。

 「戦争の実態、戦争の悲劇も知らない者が、よくもこんな記事を書いたものだと憤慨に堪えない。現在自分が平和な日本で暮らして居られるのは誰のお陰なのか。祖国のために散華した兵隊たちのお陰ではないか。……地獄のニューギニアで散華した戦友達は、母のいる祖国に還りたくてもジャングルの土となって未に帰れないのである。戦友の慟哭が聞こえて来る様な気がし筆が震えて書けない」と記すのは、諸田照吉氏(陸軍航空部隊、曹長)である。

 第十八軍の軍属として、現地人を説得しながら食料集めに苦労した後藤友作氏は、「生きて帰ってきた一人として、こんなくやしいことはない」と話す。後藤氏は東部ニューギニア戦友会の世話役であり、ニューギニア関連資料の収集家でもある。

 ここで「アイタぺ戦」に進む前の日本軍の状況を簡単に記しておきたい。

 十八軍所属の軍医としてニューギニア各地を転戦した故鈴木正巳少佐は、『東部ニューギニア戦線』(戦誌刊行会、昭和56年)のなかで、マダンを撤退(昭和19年2月頃)し、アイタペ、ホルランジャの集結地を目指して最後の力をふり絞る十八軍の残存将兵の姿を次のように描いている。

 「ハンサヘ、ウエワクヘと、西方に向かって日本軍の大移動が続いている。陸路を歩いているどの兵の顔でも疲労の色が濃い。ぼろぼろの服、ぱっくりと口が開いた靴を蔓でからげ、腰には尻当てをだらりとたらし、杖をついてよろよろと歩く。これが申し合わせたようなニューギニア日本兵のスタイルであった」

 崖からの転落、落石による犠牲、濁流に呑まれ、熱帯で予想もしなかった凍死なども加わり、二千余の死者を出した標高4000メートル級の「サラワケッ卜越え」、つづいて4000人の行方不明者を出したフィニステル山系を縦走しマダンに向かう「ガリ転進」、これらの苦難に堪え、生き残った五一、二〇師団をはじめとする将兵たちが、かつて東進した道を逆に西へと歩を運ぶ姿の描写である。

 ハンサからウエワクまで170キロ、アイタペにはさらに160キロが加わる。途中、セピック、ラムの両大河がつくる泥水と底なし沼のデルタ地帯が待ち構えていた。空からは間断のない爆撃、海には高速魚雷艇が行きかう。加えて飢餓とマラリアなど病魔との戦い、勝ち目などあるはずもなかった。

 こうしてウエワクにたどりついた将兵などをもって、最後のアイタぺ戦(昭和19年7月~8月)に挑んだのである。火力の差はいかんともしがたい。退却する海岸道はいたるところにドクロのような死体があり、臭気が一面に満ちていたという。そのなかをやせ衰えた兵が三々五々、幽鬼のように東へと落ちて行く。そして現地人の協力を得ながら「自活」という耐乏生活の道を切り開いてゆく。この将兵たちが、命綱ともいうべき現地人を強姦し殺害し、そのうえ大量に食ったとまでいうのである。

慰安婦は一人もいなかった


 性奴隷/慰安婦問題から報告したい。『週刊朝日』は1万2718人(朝日新聞は1万六千余人)の現地人女性が日本軍の性奴隷/慰安婦にされたと報じた。

 だが、31人の回答者全員、東都ニューギニアに日本人を含め慰安婦は一人もいなかったし、慰安所など一カ所として存在しなかったというのである。さらに、何人かは西部ニューギニアについても同じだったと指摘する。回答は先に引用した『戦場パプアニューギニア』の記述と完全に一致している。

 東部ニューギニアのラエから西部ニューギニアのデバまで足跡を残したという花輪久夫氏(陸軍二二飛行場大隊、曹長)は、「ニューギニア慰安婦など居りません。断言いたします」と明言する。そして、「根も葉もないことを書き立てる」とし、野戦病院で身動きできない戦傷病患者を火炎放射器で焼き殺し、息のある者も穴に埋め、戦車のキャタピラで均したのは連合軍だったのだといい、日本軍の非ばかりを断罪する報道に痛烈な批判を寄せてきた。

 慰安婦を「聞いたことも見たことも無かった」とする吉川正芳氏(五一歩兵団司令部、中尉)も、一連の報道を「馬鹿げた事で話にもなりません」と書く。青木修兵衛氏(四一師団二三九連隊、副官)も慰安婦は「いなかった」と明言し、海軍・第三一防空隊一等兵曹の高野修作氏もまた、自分のよく知る「ウエワクに慰安婦はいなかった」と話すなど、全員が慰安婦の存在を真っ向から否定している。

 慰安婦が一人もいない以上、「性奴隷」もなにもあったものではない。それが1万人以上の自称「慰安婦」が名乗り出て、あれこれ証言したという事実の方が問題である。ニューギニアは貨幣のない世界であった。だから、慰安婦という職業もなかったろう。そのなかったはずの慰安婦がこれだけ出てくるのは、何ものかの入れ知恵がなければ起こるわけがないのである。

 それとも、朝日新聞社は東部ニューギニア慰安婦がいたという確実な証拠を持って書いたとでもいうのだろうか。

混血遺児が一人もいない


 つづいて強姦殺害である。右のように慰安婦はいなかったと書くと、そうならば強姦が日常的に起こったはずだと主張する人間が出てくる。日本軍といえば即、悪という反応だけで書き連ね、ウラを取るなど考えようともしない。強姦して殺害するなどという行為がそうそう起こるとでも思っているのか。

 「現地人たちは皮膚病などで不潔であり、そんな気を起こす日本兵が一人としていたとは思えない」と否定するのは梶塚喜久雄氏(四一師団、大尉)である。

 この見方は回答者全員に支持されている。「その通り。マラリアに冒され、栄養失調の将兵は全く性欲なし」と川田浩二氏(海軍主計大尉)も全面否定する。

 兵士は若い盛りに違いなかったが飢餓と隣り合わせであり、「当時、日本兵は栄養失調、マラリア、大腸炎等でとてもそんな気になる筈がない」と古川静夫氏(二〇師団、少佐)も指摘する。そんな余裕のある戦局ではなかったというのである。

 「現地人(当時は現代よりもっと不潔)は異様な臭気、排便後は肛門を土でこすって始末する。その様な対象にSexする気が起こるでしょうか。まして動物性蛋白質欠如による栄養失調の体で。ニューギニア戦の実態を知らないこと甚しい」といい、記者が何も分かっていないと記すのは海軍軍医大尉・渡辺哲夫氏である。

 できれば右の証言は書きたくなかった。また回答者も同じ気持ちだと思う。生還者は連合軍との戦場になったことで、パプアニューギニアの人たちに迷惑をかけたとの認識と、戦時中に彼らからよくしてもらえたからこそ生きのびたのだとの感謝の気持ちを強く感じている。

 オーストラリアによる人種差別政策が現地人の白人嫌いを引き起こし、これが日本に有利な働きをしたのは事実と思う。だが、前述の『戦場パプアニューギニア』によれば、「戦場で倒れた死傷者に対するパプアの対応は、豪州兵の感情に決定的な影響を与えた。死者は敵味方の区別なく丁重に葬る。負傷兵はいたわりながら、はるか後方の基地まで送り届ける。倒れている日本兵も同じ扱いを受け捕虜となった。豪州兵の間に深い感動がわき起こったのは当然だ」とあり、豪州兵の家族への手紙には、例外なくパプアヘの感謝の言葉が書きこまれていたという。

 現地人はわれわれ現代人にない、あるいはとうに忘れていた「やさしさ」を有していたのではないか。現地人を悪くいう人に出会ったことがない。

 遺骨収集などで訪パすることの多かった元将兵は、現地の人たちが今も協力的であることなどから、もっとも日パ友好を願っている人たちなのである。その日パ友好に水を差すようなことを書きたくはなかった。が、書かなければ冤罪が晴らせないのである。

 さらに強姦が事実でないとする客観的な状況証拠が存在する。 第十八軍の作戦補助参謀であった堀江正夫氏(少佐、元参議院議員)は一連の報道について、「荒唐無稽なのは常識で考えてもわかるではないか」といい、強姦殺害について次のように指摘する。

 「第一、強姦が事実なら、混血の遺児がたくさん出たはずです。しかし、ニューギニアに遺児は一人もいません」という。

 堀江氏の主張には説得力がある。朝日報道が事実なら、現地には日本人との混血がゴロゴロしているはずである。戦後、多くの人たちが遺骨収集のために東部ニューギニアを訪れた。だが、東洋系との混血児を見たという人はでてこないのである。

 後藤友作氏(軍属)は前後9回、延べ150日間、須藤レポートにあるクンジキニ村を含め、各地の集落を回ったが混血児を見ていないといい、梶塚喜久雄氏(四一師団)にいたっては百回もこの地を訪れているが同じ結果という。

 6回訪れた亀田英二氏(五一師団)は、「日本人との混血は見ていないが、白人との混血はいた」と話す。白人との混血者を見た人はほかにもいる。この混血児がどういう理由で生を受けたかはっきりしないが、日本人と白人とは清潔に対する感性が異なるのではないかとの指摘もある。

 ともあれ、東洋系との混血児のいないことは、この地を訪れた人なら一目瞭然だったはずである。記者ならぱ当然持つべき疑間すら持たずにルポを書く。書かれる方はたまったものではない。それとも、強姦したうえ片端から殺害したから遺児は一人もでなかったとでも主張するつもりなのだろうか。

人肉食について


 性奴隷/慰安婦、強姦殺人が荒唐無稽であることは明らかであろう。このうえ、原住民の人肉食犠牲者1817人という話をどう信じろというのだろうか。

 一人を除く全員が「見たことも聞いたこともない」と否定し、一人が「事実かどうか分からない」と強調しながらも、「ラエ、サラモア方面であったと聞いたことがある」と答えている。ラエ、サラモアはアイタペとは反対方向にある。

 日本兵同士による人肉食のあったことは間違いない。故鈴木正巳軍医は、「苛烈な戦争を戦いぬいた十八軍にとって、唯一の恥部ともいうべき部分」とし、戦友の遺体を損壊、嗜食した事実を認めている。

 このことを察知した軍は憲兵を派遣し、禁を破った兵を銃殺にしたという話が生還者の間につたわっている。連絡のとれた憲兵軍曹は戦友にも確かめたうえで回答を寄せ、「銃殺があったのは事実」とし、人数は不明ながら取り調べたのは「10人以下」とのことであった。

 第十八軍参謀・故田中兼五郎中佐は戦後のラバウル裁判に弁護側証人として出廷、「日本軍の緊急処断令では日本軍人もおよそ70名処断されている。このうち40名は敵前逃亡および抗命の罪、30名は人肉嗜食の罪によるものであった」(岩川隆、『孤島の土となるとも』)と証言しているから、少なくとも30名程度がこれに関係したといってよかろう。

 豪州兵に対してであるが、豪州側の調査資料および遺棄死体を口にしたという日本側証言もあることなどから、少数ながら起こったことと判断している。

 「日本軍はオーストラリア人に何をしたか」と副題のある『知られざる戦争犯罪』(田中利幸メルボルン大学教員)に記述された豪州側レポー卜については、日本側のウラ付け調査がほとんどないという点を指摘しておく。

 ラバウル裁判における日本側弁護人、松浦義教氏の緻密な日記のうち、裁判終了後に記した感想を紹介しておきたい。レポートの性格を知る一助になるはずである。

 松浦氏は、初期の裁判では「真実こそ力である。真相を明らかにしさえすれば被告は救われる」という姿勢であったが、「それはまったく甘かった。彼らは真相を求めているのではない。処刑処罰の手掛かりを求めているだけだと悟った」(『真相を訴える』、元就出版社、平成9年)と記している。

 アイタペ戦のあと、生きのびた将兵アレキサンダー山脈を越え、セピック河流域など食料の得やすい地へと移動して行く。自活の道を求め、再起を待つといっても、当面は現地人から食料を分けてもらうしか方法がない。

 日本名を「カトウ」という酋長のいる村落に、数人で「居候」となった尾川正二氏(二〇師団、下士官)は、このときの現地人について次のように記している。「未開といわれる彼らの、内面の明るさ、ある意味の気高さは、人間の本源に根ざすやさしさからくるもののように思われる。伸びやかであり、広い」(『東部ニューギニア戦線』、図書出版社)

 だが戦場となれば、日本軍側につくか連合軍側につくか、現地人が選択を迫られる場面がでてくる。日本軍が現地人に銃を持たせ、戦わせたことはなかったが、豪州軍は現地兵(土民兵)を組織し銃を持たせた。

 このなかで、昭和19年12月のチンブンケ事件が起こった。チンブンケ村に駐在していた分遣隊19名(四一師団)が現地人、豪州兵の奇襲をうけ18人が死亡、残る1人が重傷を負うという事件を発端に、これを知った日本軍による報復殺害が起こる。事件の当事者、浜政一大尉(後に渡辺)は、手記(『丸』、昭和47年3月号)を残し、村民約150人を殺害したとしている(現地側では約100人)。

 逆のケースも起こった。敗戦直前の昭和20年8月9日、二〇師団の野戦病院に対し顔見知りの現地人が奇襲をかけ、平賀病院長(少佐)以下約20人を蛮刀などで殺害したものである(ルニキ事件)。

 小規模なものはこのほかに起こったかもしれないが、知られているのは右の2例ぐらいである。

 不幸な事件もあったが、アイタペ戦以降も両者の関係はおおむね友好的といって間違いないと思う。でなければ、最後まで日本軍に協力し、その罪により3年間投獄(判決は絞首刑)されたウエワク一帯を支配するカラオ大酋長のような存在があるわけがない。

 まして、現地人を殺害したうえ食うなどということが起こったなら、カラオ酋長をはじめ勇敢な彼らが黙っているわけがない。たちどころに周辺集落につたえ、音もなく近づいた彼らに徹底的に報復されていたであろう。彼らを敵にまわしたら生きていけないことを日本兵が一番よく知っていたのである。

 宇佐美晃氏(五一師団、曹長)は、現地人から兄弟のように助けてもらったといい、「原住民が親切にして呉れたので、私たちは日本へ帰ることが出来たのです。今でも感謝して居ります」という受けとめ方がごく普通なのである。

 あったという確かな証言はないが、ウワサがあったこと自体は事実と思えるし、日本兵全員に確かめる方法がない以上、現地人に対する人肉食問題がまったくなかったとは言えない。ただ、豪州裁判でこの問題による受刑者はなかったようだし、かりに人肉問題が起こったとしてもごく少数、それも死体損壊の範囲だと結論づけてよいのではないか。

報道責任とわれわれ

 化学兵器(種類不明)による死傷者1867人について、「化学兵器はなかった」と一致した回答を寄せていることを報告するにとどめたい。

 今日までの朝日新聞社の日本軍にかかわる誤報を数えあげたらきりがない。

 昨年8月、「記憶はさいなむ」の表題で連載され、「後悔しない、うそじゃないから」と報じた元兵士の慰安婦連行の話が、真っ赤なウソであったことが秦郁彦・日大教授によって指摘された(『諸君!』11月号)。

 また、「虐殺証言、若者に届いたか」と報じた中国における毒ガス事件(8月13日付)についても、本誌12月号で柿谷勲夫氏が指摘しているところである。そして、パプアニューギニアに関するこの報道である。

 これらの報道に共通する点は、記者がウラをとろうと考えた気配が見られないし、現にウラをとっていないことだ。今回の問題でも、木本良次氏(船舶工兵五連隊、大尉)が週刊朝日編集部など朝日側に抗議をつづけているが、その後日本側を調査したという痕跡は見られない。こんなアンフェアな報道があってよいのか。

 日本軍といえば即、悪という紙面作りをする一方、日本軍にかかわる誤報が、朝日の手で正された例が一つでもあっただろうか。私はその例を知らないのである。この新聞社がわれわれ日本人の利害、国益にとってどういう存在なのか、しかと見きわめなければならない時期にきていると思う。

 そしてこのような報道姿勢が、自浄作用によって是正されると期待するのは幻想と思うし、変わるとすればわれわれの対処の仕方にかかっていると思う。その意味で、今回の報道について一人でも多くの人に事実関係を知ってもらうために、関心を持つ読者のクチコミを、また知らせる手段をお持ちの方々の協力をお願いしたい。

 過去から教訓を得、将来に生かすことは大切である。だが、日本軍といえば悪の権化とし、国に殉じた兵士に一片の敬意を抱かずにただただ貶めていく姿勢とは、はっきり決別しなくてはならないと思う。