南京日記1937年11月25日

南京日記1937年11月25日

  医者の問題は深刻だ。我々は香港、上海、漢口の赤十字に電報で医者と医薬品の援助を要請した。外来の医者は要請できなかった。と言うのも電報は米国大使館を通したものであり、米国大使館は他国の大使館と同じように、同胞の南京退去を促していたから。

  この私がいつかまた、古い支那皇帝のCurios(注)の宝物の避難に手を貸すことがあるとは夢にも思わなかったが、その機会はやってきた。私の誕生日に約束されたI-Ho-Tung Brick Worksのトラック一台はしばらくの間、負傷者を看護する学生たちを運ぶのに使われていたが、今はHan Liwu(注)博士に貸し出していた。

彼は、驚くことなかれ、1万5千ものCuriosの箱を港に運ぶ為に、大量のトラックを集めていた。政府はこれらを漢口に運ぼうとしているのだ。彼らはこの宝物が日本軍の手に陥ることを危惧していた。そうなったら、北京に運ばれてしまうだろう。元々、北京にあったものなのだから。

  ラジオでは、昨日の上海の動向が報じられた。日本軍司令部が、南京に非戦闘員の為の中立地帯を設定する努力を好意的に受け入れた由。公式の回答はまだ来ていない。

  ハンの防空壕が潰れてしまった。新しいのを築かねばならない。それに彼は、学校の一室を家族の為に準備中だ。Ella Gao夫人は、大量の箱やトランクを保管するのに送りつけてきた。その中に、注意、時計!と殴り書きした掛け時計が二台あった。

  隣人の靴屋、あの憐れむべき靴屋は、今では友だちになった。私たちは一致団結していた。彼は一日中家族と防空壕の排水に従事し、その合間に10ドルで私に素敵な茶色の長靴を作ってくれた。この友情が強固なものになる助けにと、私は1ドル上乗せしてやった。

  日本軍は、ラジオの報道では、非戦闘員の中立地帯について未だはっきりした回答を与えていなかった。私は、上海のドイツ総領事館と上海の支部長のラールマンを通して、ヒットラーとクリーベル(注)に電報を送ることにした。今日送信された電報の内容。

上海ドイツ総領事館

党委員長ラールマンへ・コノ電報ノ本国ヘノ転送ヲ求ム・マズハ総統閣下ヘ:南京党支部管理者及ビ当地国際委員会会長ハ 安全地区設置へ向ケ日本政府ヘノ総統閣下ノ慈愛アル口添エヲ切望スルモノデアル サモナケレバ南京在住ノ20万非戦闘員ノ生命ノ危険トナレバ・敬具 南京ジーメンス営業部長ラーベ・2ツ目ハクリーベル総領事宛・総統閣下ノ日本政府ヘノ働キカケヲ実現スベク、援助ヲコウ 安全地区設置ガナサレナケレバ近イ将来ノ南京戦デハ殺戮ハ避ケラレヌモノトナルデアロウ・ハイル ヒットラー

ジーメンス営業部長及ビ南京国際委員会会長ラーベ・ラールマン氏がもしかして高額な電報代に驚くか知れないので、電報代は上海のジーメンス支那社に請求するよう手配した。

  今日はバス運行が停止した。バスは全部、漢口に行ったそうだ。20万人以上の非戦闘員の支那人がまだ残っているとは言え、これで通りは少しは静かになるだろう。ヒットラーが安全地区設置に尽力する我々を援助してくれるよう、神に願った。

  Han Liwu博士がたった今、支那政府からの安全地区設置の許可に関しては心配する必要はない旨を伝えてきた。大元帥自身が許可を与えてくれたそうだ。

  我々は委員会のForein Direktorも見つけた。これには南京YMCAのフィッチ氏が就任した。後は日本政府の承認を待つばかりだ。
ドイツ大使館に、上海のジーメンス本社から私宛ての電報が届いたが、こう書いてあった。

ジーメンス社員へ。当地ジーメンスよりの通達:一刻も早く南京を退去せよー身の危険を避けるべしー漢口への移住を推奨ー返信を望む。

これに対し、私は大使館より返信。

上海ジーメンスへラーベより・11月25日に貴殿の電報を受領ー南京残留を決心ー20万以上の非戦闘員の為の安全地区設置を目的とする国際委員会会長に就任。

  ハン氏は100樽ものガソリンをI-Ho-Tung Brick Companyからの購入に成功、20袋もの小麦粉も手に入れた。庭では、新しい防空壕を掘っているところだ。ガソリン備蓄には、他の場所を見つけることにした。100樽のガソリンを庭に置くのは危険過ぎる。

  スミス博士の電話によると、東京の新聞の記事と称し、南京安全地区の設置は攻略を困難にするのみならず、遅延をももたらす、との見解を伝えてきた。この計画がうまく行かなければどうしたらいいだろう。我々は大きな苦境にある。希望はヒットラーだ!

  ローゼンは、万一南京攻略ある場合、その前に我々全員をJardines社のHulk船で脱出させられるか気をもんでいた。緊急時には、ヒルシュベルク家もそれで避難する予定だ。それは間違いなく合理的な考えだが、退却のことだけを考えたり話したりすることは、とても気の滅入ることだ。私の回りの支那人は皆、落ち着いて行動している。彼らにとって重要なのはマスターが逃亡しないことだ。他のことはどうにかなる。私自身、この状況に何としても屈してはならない、という気持ちを持っている。ただ、この家よりもう少し安全な場所に移りたい気持ちがあるのは否めない。

  多分、私は他の家に移れるだろう。ローゼン博士はチャン・チュン大臣の家提供の申し出を受けた。そこには、立派な防空壕がある。私も一度赴き砦を見なくては。しかし、1つ大きな問題がある。引っ越しか否か?現在私の所に群れているこの多勢の人々を連れて行くわけにはいかない。そして、同時に二軒の家にいることもできない。私のような貧弱な人間の存在でも人々の役に立っているなら尚更のこと。

Curios:Old China Hands、支那の芸術作品の総称。芸術的価値は疑問視されていた。支那の芸術作品はこれより約100年程前に再発見され、外国人たちが収集した。ジョン・ラーべもささやかなコレクションを持っていた。

Dr. Han Liwu :支那政府の高官。
リーベル:退役時中尉。ヘルマン・クリーベルルーデンドルフ将軍の代理として1923年のヒットラーによる所謂「ミュンヘン一揆」と呼ばれるクーデターに参加。城塞禁固刑に処せられた。数年後ナチス党に入党。1929~1933年蒋介石の軍事顧問。その内1年は顧問長の職を担っていた。1934年より上海総領事館職員。親支那の姿勢が災いして1937年に解任、1年半の空白の後、外務省人事部長に就任。その時、ヒットラーの信頼は既になかった。