南京日記1937年11月27日

南京日記1937年11月27日

  厨房係のツァオはなかなか病気が治らない。Jacopralを処方されていたがもうどこにも見つからなかった。薬局はみな店仕舞いして撤退していたから。今日になって、即ち5日も経ってから、人々はその事を私に報告することを思いついたようだ。手持ちの薬を彼に与え、(もちろん倹約の為だが)暖房のない部屋に一週間も寝ていたので、私の小さい石油ストーブを貸してやった。何故石炭ストーブを買わないのかと言う質問に、彼はこう答えた。

ストーブの煙道がもう買えない、店は全部閉まっているから。多分これは嘘だろう。状況を把握しなければ。お人好しのツァオは、他の従業員からはあまり好かれていなかった。だから、今になって誰も看病する人がいないのだ。もちろん、あってはならない事だ!


  ローゼン博士は、私の為に涙ぐましい努力を払ってくれた。私はドイツ人残留組の中で一番の問題児なのだ。彼はもっともな事だが、私が他のドイツ人や英国人達と、Jardines社のHulk船で退去しない事を恐れていた。彼は私の為に、Prideaux-Brune英国領事から、Hulk船の乗船許可証を手に入れてくれた。船は近日中に上流へ牽引されることになっていた。

  それに加えて元大臣Chang Chungの家への引越しまで世話してくれた。ー それを私が必要とするかは別として ー 要するに、やれることは全部やってくれたのだ!

  昨日の午後、私達は腹を割って話をした。即ち彼は己れの運命について語ってくれた。彼の祖父(注)はベートーベンと親交があった。ベートーベンから祖父に宛てた手紙を見せてもらった。彼の家系は、殆ど100年も前から外交の任務に就いていた。父親は大臣になった、しかし彼自身は外交書記官よりは出世出来ない ー ユダヤ人の祖母が出世を台無しにしてしまった。なんと悲劇的な運命であることか!

注 祖父:母方曽祖父の事。イグナツ・モシェレス(1794-1870)チェコ出身の作曲家、ピアニスト。ユダヤ系。

原書ではここにゲオルグ・ローゼンの身上書が入ります。次項に載せます。

11月27日夜
  18時に北京通り69番地にてミーティング、町防衛司令官のタン将軍が出席し、スピーチをする。彼は間も無く始まる防衛戦では軍隊の混乱が予想されることに、喚起を促した。力の及ぶ限り、外国人の安全を守ることを約束。市の門は閉じられるが、外国人はギリギリまで門の通過を許可される。

  ローゼン博士、英国領事Prideaux-Brune、それに米国大使館書記官のAtchinsonは今日の午後、蒋介石元帥殿を訪問する。町の防衛についてはっきりとした回答を得ようとしていた。良い考えだ!

  我々の国際委員会はまだ日本側から公的な回答を得ていなかったので、米国大使館から上海の日本大使館宛てに再び電報が送られた。ヒットラーとクリーベルに宛てた私の電報が功を奏したかどうかは、もちろんわからない。しかし、電報は既にベルリンに届いているはずである。

  明日14時に国際委員会の会議を行うことを取り決めた。日本側から回答を得られずとも、何かの備えをせねばならぬ。少なくとも、安全策を講じなければならない。