南京日記1937年12月1日

南京日記1937年12月1日

9時半、クレーガーとシュペアリングを連れて委員会の会合があるPing Tsan Hsianに赴く。様々な部署を設け、人員リストを作るのが目的だ。マ市長が職員と共に会合に出席し、3万袋の米と1万袋の小麦粉を約束した。残念ながら、食糧を難民区域に運ぶトラックが未だにない。

米と小麦粉は売り捌ける。最高価格は我々が決定しなければならない。炊き出し(スープを提供)も我々が行う。
庭の第3防空壕は完成した。天井は鉄板で覆い、複数の入り口は漆喰で固められた。
午後Garrison Headquarterから2万ドル、最初の払い込みがあった。大元帥が約束した10万ドルの一部だ。残りはいつ支払われるかの問いには、相手は肩をすくめるだけだった。

フィッチ、クレーガー、スミス博士、YMCAのワン、リッグス各氏がNinhai Lou 5番地にある私の新居を見学。ここに明日、委員会本部が設置される。スミス博士は家の立派さと内装の素晴らしさと、1万7千5百ドルの価値がある防空壕に驚嘆し、私をこれからミスタージョン・H.D.ラーべ・ロックフェラーとだけ呼ぶことにした。
18時委員会会合。南京に残る人々を中立区域に入れた後で日本政府が中立区域を拒絶した場合、我々の責任は重大なものとなる。評決の結果、会員の過半数がこのまま続けることに賛成した。

中立区域への移住公示の文句はよく吟味して作成されなければならない。まずは、全ての支那の新聞社に連絡を付け、どの位の住民が残留しているかを尋ねることにした。それによって、支那人たちの心理のバロメーターを測るのだ。

ローゼン博士が米国人たちから、党支部長のPg.ラールマンが私の電報をヒットラーとクリーベルに転送した報せをもらってきた。やれやれ、有難い!これで我々は助力が望めるだろう。総統は我々をお見捨てにはならない!
ローゼン博士がドイツ人たちを招集。いつHulk船に乗船するかを話し合うためだ。

クレーガー、シュペアリング各氏、それにヒルシュベルクの息子、オーストリア技術者のハッツは、私を助ける為に残留を希望。乗船する人々は、目下乗船中のヒルシュベルク夫人と娘、大使館の3人の職員、ローゼン博士、ヒュルター、シャルフェンベルク、それにカフェ・キースリングの2人の売り子、ノイマン嬢と名前を知らないロシア人女性、カフェの簿記係などだ。

ヒルシュベルク博士は病気のチャン・チュンを漢口に連れて行った。その際、私のインシュリンの蓄えを彼に渡した。ヒルシュベルク博士は飛行機で戻るつもりである。医者が絶対に必要なのだ。

(ジーメンス社のアシスタントの)ハンは友達のI Ho Tung Brick Co.社員のスンと共に、私から直々に食糧委託責任者に任命された。ハンは輝いていた、こんな高い地位に、私は生まれてこのかた着いた事はありません。