南京日記1937年12月2日

南京日記1937年12月2日

何故かコメントができないので。仕事でへばってサボってました。すみません。まだまだ続きますよ~


  フランス人ジャキノー神父(注1)の仲介で、日本政府からの電報の翻訳を受理。

1937年12月1日南京大使館(注2)宛て電報

11月30日付け貴殿の電報
南京安全地区委員会への返信は次の通り:
日本政府は貴殿の安全地区設置の請願を承知するものである。遺憾ながら安全区設置許可は与えられない。支那軍隊が市民や市民の財産に対して不正を働く場合、日本政府はその責任を一切負うことは出来ない。後者は(日本政府)、軍事的手段に適う範囲内において、同地区に対する配慮を努力する。ジャキノー
 
  ロンドンはこの回答について、ラジオで報道されたように、完全な拒否と見做した。我々の意見は違う。この返信は外交的に賢明に作成されている。抜け道が用意されていて、全般的に好都合だ。我々は、日本政府が「支那軍隊の不正」に対し責任を取ることなぞ期待していない。電報の最後の文:「後者は軍事的手段に適う範囲内において、同地区に対する配慮を努力する」これは申し分のない答えだ。
  米国大使館を通して送られる返信は次の通り:

  南京安全地区国際委員会より、次項の情報をジャキノー神父に送信されたし:貴殿の尽力に深く感謝いたします。軍事的手段に適う範囲内において同地区に対する配慮を努力するという日本政府の保証は、委員会で感謝を持って評価されました。我々は支那政府より完全な承認を得ました。我々の原案は遵守されます。委員会はこれより安全地区の組織的、行政的な業務を進めます。難民の地区への流入が既に始まっていることをお知らせします。適切な調査の後、時宜を測って、委員会は支那及び日本政府に地区の開設を通知いたします。

  委員会は貴殿に更に日本政府との接触をお願いするものであります。貴殿の委員会にもたらす直接的、確信的な情報が苦境に喘ぐ住民の労苦を和らげるであろう事をお忘れなきよう。これに応じる日本政府の発表が間も無くもたらされることを祈ります。
委員長、ジョン・ラーべ
 
  驚いたことに、ドイツ大使のトラウトマン博士と使節書記官のラウテンシュラーガー博士が漢口から戻ってきたと言う報せが届いた。ローゼン博士は問い合わせに答えて、それは委員会の仕事とは無関係であると説明。彼は私に内密に、大使は私が総統とクリーベルに電報を送ったことには同意していない、と告げた。そんなものは必要なかった、というのが彼の意見だ。私は明日トラウトマン博士を尋ねようと思う。今日はもう時間がない。彼の帰還は恐らく、ドイツの平和調停に関わることなのであろう。

  我々は用意された米と小麦粉を運搬する為のトラックの調達に難儀している。それらの一部は安全区域からずっと離れた場所に、見張りもなく貯蔵してあった。米の大半はもう軍当局に持って行かれてしまったらしい。米3万袋の内、1万5千袋のみが残っているということだ。

  ローゼン博士が大使館付き警察官の発言を元に、警察が軍と共に町を去る司令を受けている、という指摘に対し、マ市長は否定している。20時、ハン・リーウ博士の壮行会のディナー。彼は今晩、1万4千の城の宝物を持ち、漢口に出立する。千箱は運搬する船が足りない為、残していくことになった。彼が行ってしまうのはとても残念だ。その非凡な有能さで、常に我々の大きな助けとなっていたからだ。

注1ジャキノー神父:Nantao/上海に、安全地区を設置した。
注2 南京大使館 :電報用コード。南京米国大使館。