南京日記1937年12月10日
南京日記1937年12月10日
とても騒がしい夜だった。昨夜8時から今朝4時頃まで、大砲の轟音に加え、銃、機関銃の音がずっと鳴り響いていた。日本軍は既に昨日の朝、あわや町をほとんど征服するところだったという。彼らは全く手薄だったらしいGoan Hoa Menにまで浸入してきた。支那の予備連隊が交替の時間通りに現れなかったにも拘らず、少数の兵以外は持ち場から離れてしまった。その瞬間に日本軍は現れた。そしてようやくやって来た予備連隊は、やっとの事で敵を押し戻したのであった。今朝入った情報によると、日本軍は昨夜長江にある給水所まで進軍したということだ。遅くとも今夜中には町は日本軍の手に陥ちるだろうと、誰もが思っている。
ドイツ語を話すキング医師が、委員会に支援を申し出てくれた。彼は安全区域外に8つの野戦病院を管理している。しかしこの野戦病院には軽傷者しかいない、と彼は続けて、大抵の者は戦場から逃れる為に自傷した者ばかり。キング医師は重傷者を安全区域に移動させたい、と言った。
それは協定に反することだが、これを知った日本軍が異議申し立てをせぬことを祈ろう。私はキング医師に、我々の医術部門の責任者、鼓楼病院のトリンマー医師を訪ねるように指示した。キング医師の話しによると、彼の元には80人の支那人医師が待機しているとのこと。我々はその存在を全く知らなかったが、彼らが本当に来てくれれば、大変喜ばしいことである。多ければ多い方が良い。この2日間で町には千人の負傷者がいるのだ。
ジョン・マギー牧師はここに赤十字の欧州課を開設しようとしているが、資金があるにも拘らず ー Huang大佐から二万三千ドル受け取っていた ー 遅々として進んでいなかった。赤十字からの回答が来ていないからで、赤十字の許可無しには事をこれ以上進める考えは、彼にはないようなのだ!なんてことだ!私だったら何時迄もぐずぐずしていない。善き事を試みるに、何故何時迄もお伺いを立てねばならない?許可は遅かれ早かれ下りるのだ。
我々は先の電報に対する日本官庁と蒋介石の回答を、気を揉みながら待っている。この町と20万人の命運がかかっているのだ。
安全区域の道路は難民でごった返ししている。多くの人が避難場所を見つけられずに、道路にキャンプしている。我々は、安全区にまだ軍隊関係者がかなりの人数いることを、遺憾の意を持って確認した。LungとChow大佐と次のような取り決めを交わした。
1.タン将軍は安全区の南西境界線を最終的に認可すること。
2.Lungは兵士達が五台山の炊き出しを邪魔せぬよう監視すること。
3.軍司令部より3名、委員会より3名が代表して安全区の監視に当たる。発見される兵士は悉く安全区より追放される可きこと。3人の代表は、タン将軍より委任状を持ち、命令を直ちに下し遂行させる権限を持つこと。
ハン氏が報せを持ってきた。下関の兵士達が我々の残りの備蓄米を焼き払おうとしている。Lungはそれを阻止することを約束。私は下関へ通じる門を通過する為に、軍隊証明書を手に入れた。
ハン氏が報せを持ってきた。下関の兵士達が我々の残りの備蓄米を焼き払おうとしている。Lungはそれを阻止することを約束。私は下関へ通じる門を通過する為に、軍隊証明書を手に入れた。
東側では戦闘準備をしているようだ。砲火の重い音が聞こえる。同時に空襲だ。
何とかしなければ、間も無く安全区にも銃弾が飛び交うようになろう。そうなれば大殺戮になってしまう。道路は人でいっぱいなのだ。日本軍が承認さえしてくれれば!
ここに駐留している欧州の戦場記者達が真実を報道できないのは、至極遺憾だ!報道の晒し者になるべき人物が幾人かいる。彼らのせいで、安全区を非武装化する約束は未だ果たされていないからだ。
我々はみな落胆している!ジョンソン米国大使より、たった今漢口の回答が届いた。大使は蒋介石に電報を転送、大使自身は我々の提案を承認、支持する。しかし、彼はもう1通内密の電報を送ってきた。大使は漢口の外務省から公的に口頭での回答を得たことを伝え、タン将軍が3日間の休戦と軍隊を南京から撤退させる我々の提案を承認したという見解は、誤解に基づいている、と。
更に蒋介石は、その様な提案は受け入れられる状況にないと通告してきた。我々は誤解でないことをもう一度確認した。電報発信の場に居合わせたLungとLingは間違いでないこと、大元帥は彼らの考えでは承認するであろうことを認証した。我々はそう簡単には諦めない!もう一度蒋介石に電報を送り、私は同時にドイツ大使トラウトマン博士にも電報を送り、我々の提案への援助をお願いした。
昼
今日の町は一日中爆撃が止まなかった。窓ガラスはガタガタ鳴り続け、紫金山の建物が幾つか燃えていた。郊外もまだ燃えている。しかし難民区域にいる人々は安全に保護されていると感じているようだ。日本軍の爆撃機のことは気にも留めていない。日本ラジオ放送が南京の24時間以内の陥落を発表。支那兵士は既に戦意を失っていた。とりわけ町最高級のメトロポールホテルは軍隊に占領されていた。
兵士達はバーで呑んだくれ、クラブの肘掛け椅子にだらし無く寝ている。彼らだってたまにはいい思いをしたいのだ。多くの人々が、今夜中に町は日本軍の手に陥ちると信じている。今の所、そのような兆候は見られていないが。外は静まり返っている。今日も、かなりの数の女性と子どもを連れた難民が往来に野宿するだろう。
22時半
私は服を着たままベッドに横になった。2時半、機関銃掃射を伴う大砲が激しく鳴り始めた。家の上を榴弾が飛び交い危険になったので、ハン氏と家族、使用人たちに防空壕に行く命令を出した。私自身は鉄兜を被った。南東方面で大火災が発生し、辺りを何時間も照らしていた。どの窓ガラスもガタガタ音を立て続け、数秒毎に規則正しい間隔で着弾するたびに家は揺れた。五台山の対空砲火部隊は撃ちつ撃たれつを続けている ー 私の家は射程距離内だ。南も西も砲撃だ。この酷い大騒音に慣れてきたところで、私はまた横になって、ウトウトした。熟睡などとてもできるものではない。
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