人類の救世主か、滅びの一歩か…遺伝学の専門家が指摘する「危うさ」の意味

人類の救世主か、滅びの一歩か…遺伝学の専門家が指摘する「危うさ」の意味

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日本学術会議のシンポジウム「ヒト受精卵や配偶子のゲノム編集技術を考える」では、専門家や来場者がゲノム編集について積極的に意見交換した=4月30日、東京都港区

 生物のゲノム(全遺伝情報)を自由に改変できる「ゲノム編集」技術の進歩が著しい。一般にはなじみの薄いゲノム編集だが、さまざまな病気に悩む人にとっては根治に繋がる可能性のある救いの技術だ。その一方で、「人類の滅亡につながる」と懸念の声も大きい。人類の救世主か、滅亡の一歩か、新たな技術との付き合い方が問われている。(社会部 道丸摩耶)
HIV除去の可能性

 「人間の浅はかな知恵でゲノムを変えてしまうことは危険を伴います」
 4月12日、東京・霞が関厚生労働省で開かれた専門委員会でそんな懸念を口にしたのは、遺伝性難病の治療に長年携わってきた国立成育医療研究センターの松原洋一研究所長だ。日本人類遺伝学会の理事長でもある松原氏が懸念する「ゲノム編集」とは、一体どんな技術なのか。

 ゲノムとは、DNAのすべての遺伝情報のことを指す。ゲノム編集とは、DNAの遺伝子の狙った場所を切ったり、切った場所に別の遺伝子を入れたりできる技術だ。複数の方法があるが、中でも「クリスパー・キャス9」という手法は精度が高く、特別な技術や施設がなくてもできる。

 ゲノム編集が特に期待されている分野は、病気の治療だ。例えば、エイズを発症させるHIV(ヒト免疫不全ウイルス)は、人の免疫細胞などに感染し、DNAを書き換えて免疫の機能を破壊する。しかし、ゲノム編集の技術を使ってHIVが書き換えるDNAの一部分を欠損させれば、ウイルスの影響を除去できる可能性がある。

 現代の医療では、HIVは一度感染すると完全に除去することはできないが、ゲノム編集を使えば除去できるかもしれない。HIVのほか、血液を固める機能を持つ遺伝子に変異が起きることで引き起こされる血友病やがんなどで、ゲノム編集技術を使った治療法の研究が進められている。
重要な「遺伝的多様性」

 特に治療法のない疾患の患者にとって、ゲノム編集は大きな希望だ。ただ、ゲノム編集が“有効”なのは、病気の患者の体細胞のDNAに対してだけではない。受精卵や生殖細胞そのものに改変を行うことも可能なのだ。

 松原氏は「遺伝性疾患が次世代に伝わることを防止したり、遺伝的な異常による不妊症や不育症の治療をしたりするために、生殖細胞や受精卵へのゲノム編集が行われる可能性がある」と解説する。改変された遺伝子は、改変された形跡も残らず次世代へ受け継がれる。

 遺伝性疾患の原因遺伝子がなくなれば、子や孫に遺伝することがないのだから良いのではないか。そうした疑問に、松原氏は「鎌状赤血球貧血」という遺伝性の病気を例に挙げて答えた。

 鎌状赤血球貧血は黒人に多い遺伝性疾患で、赤血球の形が変化することで血液が酸素を運びにくくなり、貧血を引き起こす病気だ。軽症であれば日常生活は送れるが、重症の場合は成人前に多くが死亡する。ところが、この病気の原因遺伝子を持つ人は、原虫が赤血球に寄生して悪さをする熱帯病、マラリアにかかりにくいことが分かったのだ。

 つまり、ある病気の原因遺伝子を持つことが、別の病気を防ぐことに繋がる。黒人が多く住むアフリカなどの熱帯地域では、マラリアによる死亡のリスクは高く、鎌状赤血球貧血の原因遺伝子を持つことが、生存に有利である可能性がある。

 世界で増加する生活習慣病、糖尿病にも、人間が長い期間かけて築き上げてきた遺伝子のメカニズムが関与している。「人類の歴史は飢餓との戦いで、人間はその中で飢えに強い体を作ってきた。それが、現在のような飽食の時代には、糖尿病につながってしまう」と松原氏。ゲノム編集の進歩により、糖尿病になりにくい遺伝的な体質が作れるかもしれないが、それを次世代に引き継いだ場合、人類はいずれ起きるかもしれない食糧危機に対応できるのか。

 松原氏は委員会でこう説明を締めくくった。
 「現代の医学的常識が正しいとはかぎらない。遺伝的多様性を保つことが、人類の未来に重要なのです」

 政府はこうした専門家の議論を踏まえ、受精卵を使って出産につながるゲノム編集の研究を規制するルールづくりを始める。ゲノム編集により病気の治癒が見込まれる患者がいる一方で、新たな技術は人類の未来に大きな影響を与えかねない。