南京日記 第4章 日本軍入城 1937年12月12日

南京日記 第4章 日本軍入城 1937年12月12日

残虐行為始まる

  日本軍が密やかに町を占領するのでは、という私の期待は裏切られている。安全区には今もなお黄色の腕章を付けた支那軍が、ライフル銃や短銃、手榴弾で身を固めて彷徨いている。警察も、命令に反して短銃でなくライフル銃を携帯している。軍も警察も、タン将軍の命令を遂行する気は最早無いようだ。このような状態では、安全区の非武装化は考えにも及ばない事だ。8時に再び銃撃が始まった。

  11時にタン将軍の指令でルンとチョウがやって来て、もう一度だけ3日間の休戦交渉をすることを我々に依頼してきた。
  この3日の間に占領軍(支那軍)は退去し、町は日本軍に引き渡される計画である。我々は米国大使に宛て新たなる電報を作成し、それからタン将軍が電報発信前に我々に送るべき手紙、そして日本軍前線にいる将官に休戦を申し込む手紙を白旗の下に持参する伝令の、行動規範を記した手紙。

  シュペアリンクが伝令となる事を申し出た。我々はお昼の時間、タン将軍の返信を首尾よく持ち帰る使命を帯びたルンとチョウの帰りを待った。夜6時頃になってやっとルンが戻り、我々の努力が無駄であったことを報告した。日本軍は城門近くに迫っており、休戦は時既に遅しとのこと。

  これに関しては、私は其れ程悲観的にはとっていないし、この結果を悲しんでもいない。むしろ、この試みは最初から気に入らなかった。タン将軍が大元帥の許可無しに休戦を結ぼうとしていたのは明白だった。”surrender”、即ち「開城」の言葉は大使館からは、日本軍に対して発してはならぬものだった。

休戦の請願はどのような事情であれ、国際委員会から提案されたように見做されなくてはならない。要するに、タン将軍は我々を隠れ蓑に利用するつもりだったのだ。何故なら、大元帥や漢口の外務省からの激しい非難を予想し怖れていたからだ。彼は国際委員会又は委員長のラーベに全責任を負わせようとしていたのだ。全くもって気に入らない!

18時半
  紫金山の銃撃は一向に止まない。稲光と雷のような音が山から聞こえてきたと思ったら、突然、山全体が炎に包まれた。何処かの家と火薬に火が移ったようだ。古い諺に、「紫金山が燃えたら南京は陥ちる」というのがあった。南の方からは一般人が安全区の通りを通って住居へと逃れ急ぐ姿が目につく。それに続くのは、日本軍に追い立てられたと主張する支那軍の諸部署の兵士たちだ。但しこの報告は真実でない!敗走軍の足取りからして ー しんがりなぞは通りをのんびりとぶらぶら歩いていた ー 敵に追い立てられたわけではないことが見て取れる。
  はっきりしているのは、これらの部隊が南門かGoan Hoa Menで敵の激しい砲撃に晒され、恐慌状態で逃げて来たことだ。町の中心に近づくにつれ平静を取り戻し、最初の死に物狂いの逃走はのんびりした行進に変わるのだ。これで日本軍が城門前まで進軍したのは明らかで、最後の攻撃まで間も無いだろう。

  私はハンと帰宅し、銃撃や砲撃を受けた時の準備を始めた。即ち、必要最低限の洗面道具の入った手荷物トランクや、インシュリンや包帯ガーゼなどの大切な医療カバンをより安全に見える新しい防空壕に運び込んだ。毛皮のコートには救急用品と色々な道具を詰め込んだ。この家と土地を放棄しなければならなくなった時の為に。
  少しの間、私は考え込んだ。他に何を持って行くべきだろう?もう一度居間に走り、お別れしなければならぬかもしれぬ思い出のガラクタを見渡した。孫達の写真があった。ー これはカバンの中に!これで準備は整った。笑っている場合ではないことはよくわかっているが、それでも私の下らぬユーモアはまだ優勢を保っていた。
  夜8時少し前にルンとチョウ大佐が現れ、(リンはもう逃亡していた)、私の家への避難を要請。私は許可を与えた。我々が帰宅する前に、二人は委員会の金庫に3万ドルを保管した。

夜8時
  南の空は赤く燃え上がっている。庭の二つの防空壕はもうはみ出るほどに一杯だ。家の門を叩く者がいる。避難を嘆願する女性と子供たちだ。勇敢な男たちが数人、ドイツ学校裏の塀を乗り越えて、私の土地に安全を確保しようとしていた。

  彼らの泣き叫ぶ声を聞くに耐えず、二つの門を開いて入りたい者は全員入れてやった。防空壕に場所はもうないので、彼らを建物の間や家の陰に彼らを配置した。大抵の者が寝具を持参しており、敷いて早速寝入っていた。頭の良い者はテントのように広げてある大きなドイツ国旗の下に寝具を敷いた。空襲避けに張ってあるのだが、ここが特に「絶対安全」と評判だ!

  南の方角は見渡す限り火の海だ。大騒音に包まれている。私は鉄兜をかぶり、私の忠実な支那人アシスタント、ハン氏の巻き毛頭にも1つ被せた。私達は防空壕にはもう降りていかない。最早防空壕に場所はないから。私は番犬のように庭を彷徨き集団の間を駆け回った。ここでは叱りつけ、あちらでは慰めの言葉をかける。最終的には、皆私の言葉に従順だ。
 
 夜中少し前、門が凄まじい音を立て、Carlowitz & Co.社の友人、クリスティアン・クレーガーが現れた。
「何て事だ、クリシャン!どうしたのだ?」
「あなたの様子を見に来ただけですよ!」
 
 彼の報告では、本通りは逃走する支那兵士達が投棄てた軍服や手榴弾、その他ありとあらゆる軍用品で足の踏み場もないそうだ。
「それ以外にも、」とクリシャンは続けた、「今し方僕に20メキシコドル(注)でまだ充分使えそうなバスを売りつけようとする奴がいたんですよ。どう思います、買いましょうか?」
「クリシャン、それはいいが!どうやって買うのかね?」
「ああ、」とクリシャンは言った。「明日事務所に顔を出すように言いましたよ」

  夜中には騒音は少し収まったので、眠ることにした。北の方では、交通省の素晴らしい建物が燃えている。
  身体中が痛い。48時間、一睡もしていないのだ。私の客人たちも眠っている。30人ほどは事務所で、3人は石炭穴に、8人の婦人と子供は使用人の便所で、そして残りの100人以上は防空壕や戸外、庭に、敷石の上に、裏庭に寝ている!

  夜9時頃にルンがこっそり耳打ちするには、タン将軍の命令により、支那軍隊は9時から10時の間に退却するらしいという事だった。私が後で聞き知ったのは、タン将軍は実際には既に夜8時には彼の軍隊から離脱して、船で浦口に行ったということだ。同時にルンは、彼とチョウが負傷者の世話をする為に残されたことを打ち明けた。
彼は私に、その仕事に力になって欲しい、と懇願した。私の所に保管してある3万ドルは、その目的の為だけに使用されるそうだ。私はその贈り物を喜んで受け取り、彼の力になることを約束した。負傷者達は未だ手当てを受けてはおらず、その悲惨さたるや、筆舌に尽くしがたい!
 
 注 メキシコドル:支那の通貨は当時銀だった。元々は両、それからメキシコで鋳貨された銀ドル、所謂「メキシコドル」が使用された。その価値は1930年代、2,40から2,70ドイツ帝国マルクの間を変動していた。