私の帰る場所 木皿泉

私の帰る場所 木皿泉

2017/10/4付 日本経済新聞 夕刊
 朝起きると、雲ひとつない晴天だった。母は先週から旅行にでかけていて、昨夜、帰ってきているはずだと思い出す。私は母に電話をしてみるが、何度コールを鳴らしても出てこない。今日は、家にいると言っていたはずである。空は抜けるように青く、そのことがかえって不吉な気分にさせる。
 私はあわててダンナに朝食を食べさせる。その間、母に電話をかけ続けるが、やはり応答はない。私はケータイを持たないので、母のケータイ番号を知らなかった。その迂闊(うかつ)さを歯がゆく思いながら、家を飛び出した。

 義父が亡くなったのは、早朝だった。いやな予感がして電話をするが出てくれず、駆けつけると、義父は納戸に倒れて亡くなっていた。私は、犬みたいに義父のまわりをぐるぐるまわって「お義父さん、お義父さん」と吠(ほ)えるように叫び続けた。その後は、救急車を呼んで、警察が来て、お義父さんを検死してくれる場所まで運んで、そこで死亡診断書をもらって、そこから葬儀場に運んでと、私は言われたとおり、ただ波に押し流される浮輪のように移動していった。そうだ、私は、まさに中身がからっぽの浮輪のようだった。頼りなく、ふわふわした、地に足のつかない感じ。

 朝の電車の中で、私は義父を亡くした朝と同じような、ふわふわした心持ちだった。母は八十四歳の独り暮らしで、突然亡くなってしまっても不思議ではなかった。
 電車を降りて、通学や通勤でいやになるほど歩いた坂道を下りてゆく。父がガンになって、自宅療養することになったときも、よくこの坂を上ったり下りたりした。
 父は、最後まで生きることに執着した人で、なかなか死を受け入れることができなかった。絶対に復活すると言い張っていたが、やがて、もうダメかもしれないと弱音を吐くようになっていった。父は、死ぬのが怖いと言った。私は、何の根拠もなかったが、「死ぬと、きっとお母ちゃんのところへ戻ってゆくんやと思うよ」と言うと、父は懐かしそうな顔になって、ようやく納得したのか何度もうなずいた。父は、母を小学三年生のときに亡くしていた。父に帰る場所があるとするならば、そこだろうと私は思ったのだ。

 坂道を歩きながら、私の母が、私の帰るべき場所が、今、失われたかもしれないと考える。亡くなった義父をあちこち運んだ、つらい朝のことが思い出される。実家に着くと、朝一番に干してあるはずの洗濯物がない。胸をどきどきさせながら、鍵を開けて入ると、家はからっぽだった。どの部屋も、きれいに片づけられていて、そのようすに私の胸が詰まる。母はおらず、ようやくケータイの番号を捜し出し電話をすると、いつもの元気な母の声が出た。
まだ旅行中だと、海の見える明るい空の下にいるせいか、声がはずんでいた。私が帰る日を勘違いしていたらしい。雨戸の閉まった薄暗い部屋で、母の声を聞きながら、よかったぁと思った。私には、まだ帰る場所があったんだ。でも、私は知っている。そう遠くない将来、ここはいつかなくなってしまうことを。だから、私は大切にしたいのだ。かつて、父や母が私にしてくれたように、この家のすべてを抱きしめたかった。私は外に出て、ダンナの待つ家に向かった。