東芝、幻のメモリー温存案 決断力でサムスンに敗北

東芝、幻のメモリー温存案 決断力でサムスンに敗北

東芝
エレクトロニクス
2018/5/22 6:00 日本経済新聞 電子版
 東芝半導体モリー事業の売却が確定した。稼ぎ頭を失う東芝は、収益の柱が定まらない中での出直しを迫られる。メモリーを発明し、世界市場を切り開いてきた東芝半導体事業はなぜ売られなければならなかったのか。「半導体迷走」を検証する。
決算発表に臨む東芝の綱川社長(2017年4月、東京都港区)
決算発表に臨む東芝の綱川社長(2017年4月、東京都港区)
 出席者の一人によると、東芝社長の綱川智は朝から思い詰めた表情をしていたという。2017年8月10日午前、東芝本社で開いた取締役会。綱川の不意の発言に、場の全員が息をのんだ。「メモリーを売らないプランBという選択肢もある。会見でそう説明したい」
 その日は半年間に及ぶ監査法人との対立が解消し、全会一致で17年3月期決算を承認決議する段取りだった。午後には決算会見も開き、メモリー売却を柱にした再建案を改めて説明する。事前の打ち合わせでそう決めていただけに、沈黙が数秒間、会議室を包んだ。
 一時1兆円を超す有利子負債を抱えた東芝にとって、メモリー売却は銀行と約束した既定路線だ。しかも当時は債務超過上場廃止も危ぶまれていたさなか。取締役会では異論が相次ぎ、綱川は提案を封印したが、この頃からだ。「本当はメモリーを売りたくないんですよ」。周囲にそうこぼすようになったという。
 米原子力事業で発覚した巨額損失を補うため、東芝がメモリー事業の過半売却を決めたのは17年2月だ。それから1年余り。米ベインキャピタルが主導する日米韓連合への売却が決まったが、東芝も揺れ続けた。
 スマートフォンスマホ)からデータセンターまで、世界で主流の記録媒体となったNAND型フラッシュメモリー。1987年に発明し、量産で先駆けたのが東芝だ。
 主力の四日市工場(三重県四日市市)には累計2兆円超を投じてきた。スマホ向けの需給が逼迫する現在は年間4千億円超、連結営業利益の9割を稼ぎ出す主力事業だ。「銀行の圧力に屈して売ってもいいのか」。社内で売却反対論が増え出すのは自然な流れだった。
 だがそれでも「メモリー市況がいいうちに売り切るべきだ」との強硬論は根強く残った。ある東芝幹部は「韓国サムスン電子に敗北したからだ」と理由を説明する。
 1992年、東芝サムスンと技術提携を結ぶ。「一緒に設計させてくれとサムスンに頭を下げてこい」。半導体研究者だった宮本順一(現中部大教授)は事業部長に叱責された。「サムスンにマネされる」。現場の開発陣は事実上の技術供与に反対したが、経営陣はサムスンと規格を統一してメモリーの世界普及を促す道を選んだ。
 見通しの甘さはすぐさま露呈した。直後からメモリー市場は急成長。「たいした対価もなく、サムスンに技術を渡してしまった。失敗だった」。東芝半導体部門の首脳だった中川剛は今も悔やむ。「先を見通す力でサムスンに劣っていた」。交渉に当たった宮本もサムスンに移籍した。
 140年超の歴史を持つ東芝社内で、創立40年余りの半導体部隊は新興勢力。保守本流の重電部門のやっかみもサムスン追い上げを妨げた。
 「なんでこんなに業績が振れるんだ。計画通りやれ」。09年から社長に就いた佐々木則夫半導体部隊を叱責し続けた。原発部門出身の佐々木は市況が揺れ動く半導体事業を理解できず、増産投資を渋った。
 「半導体はスピード勝負なのに、わずか100億円の投資承認に2カ月以上もかかった」。元幹部は振り返る。東芝の投資停滞を尻目にサムスンは経営トップの李健熙会長の差配のもと、製造装置を安く仕入れ、増産体制を次々整えていった。
 一時は世界首位を視野に入れた東芝のメモリー事業だが、サムスンの背中は遠のくばかりだ。「プランBなんて冗談じゃない」。綱川らが水面下で模索した代替案も結局、銀行団に潰されてしまう。決断とスピードでサムスンに負けた。その経緯はそのまま東芝の迷走の歴史を映す。=敬称略