韓国系米金融マン 慰安婦問題の誇張に疑問符 身内100人超の少女に強制連行「一件もない」

韓国系米金融マン 慰安婦問題の誇張に疑問符 身内100人超の少女に強制連行「一件もない」


日本総領事館前には2016年末、慰安婦被害を象徴する少女像を設置し問題となった日本総領事館前には2016年末、慰安婦被害を象徴する少女像を設置し問題となった
 「ボストンから一言」を書き始めたことで、いろいろな方と知り合う機会に恵まれている。
 その中の1人に米カリフォルニア州在住で金融関係の仕事をしていた韓国出身のR氏(88歳)がいる。メールだけでなく、電話でも歴史や体験談などについて話を聞くことがある。
 R氏の父親は、九州帝国大学を卒業し、昭和9(1934)年に高等文官司法試験に合格した。検事として最高位を修め、日本統治時代の朝鮮各地で勤務をしていたという。
 私と旧知の仲である、日韓併合条約を結んだ大韓帝国内閣総理大臣李完用(イ・ワンヨン)の曾孫のSさんに、R氏を紹介したところ、判事だったSさんの父親とR氏の父親の2人が同時期に平壌勤務だったことが判明した。
 それならば、業務において必ずや何らかの繋がりがあり、知己だったに違いないと私たちは推測した。
 R氏によると、当時の朝鮮半島には、朝鮮人の検事と判事は合わせても約50人少々だったという。予測不可能な人生の巡り合わせとなった。
 R氏は、この年で類いまれなる記憶力の持ち主で、驚かされることしばしば。
 ■強制連行の話は聞いたこともない
 そのR氏が、30年以上前に米国で同じ飛行機に搭乗した日本の国会議員の出生地が、自分の住んでいた地域だったことを最近知り、この議員にメールを出したということで、私にもその文章を送ってきた。
 メールの内容は、慰安婦問題に関する矛盾を詳細に指摘したものだった。そこには、現代の日本人や韓国人には想像も、もはや知ることもできないことが多く述べられていた。
 R氏はメールの中で慰安婦問題について、こう疑問を問いかけている。

 「私は戦時中すでに物心が十分ついた年齢でした。一族は代々、慶尚北道の大地主で 郷里には多数の親族と小作人家族が30所帯ほどおりました。その親族、小作人の家庭には、もちろん百人以上の少女がおりました。それなのに、そのうち日本の官憲により、慰安婦として強制拉致された事実は一件もありません」
 R氏は自身の記憶と体験談を踏まえてひとつ一つ状況を説明している。そして、一部で20万人とも指摘される慰安婦の数についてはこう疑問を投げかけた。
 「当時の朝鮮人人口は2000万を切りました。日本軍がその中から20万人の少女を強制拉致したのなら、まさに朝鮮人少女の“根こそぎ拉致”となってしまいますが、わが家族、一族、小作人家族の少女はみな安泰でした。また、当時、日本軍による少女拉致は目撃したこともありませんし、その様な話を聞いたこともありません」
 ■どうやって日本人と朝鮮人を区別したのか
 また、日本軍による朝鮮人女性の強制連行が容易でない理由も次のように述べている。
 「日本軍がひそかになんらの騒動もなく、大勢の朝鮮人少女を拉致することは不可能です。警察官の半分以上は朝鮮人でした。ご存じのように、当時、朝鮮人創氏改名で、ほとんどが日本名を名乗っていました。日本官憲が路上でどのようにして日本人少女と朝鮮人少女を区別して、朝鮮人少女のみを強制拉致できたのでしょうか」
 日本側が住民とトラブルを起こすことなく多くの女性を強制連行することは不可能だと、私の韓国の友人たちも同様に否定することは興味深い。

 R氏は、慰安婦募集の強制性に言及した河野洋平官房長官談話について「当時、日本でも朝鮮でも貧しい家庭は、いろいろな形態で娘を奉公に出す慣習、制度がありました。世界を感涙させた『おしん』は、翌年の種にするもみと交換で子守奉公に出されています。河野談話で認めた強制(性)は凶作、貧困、負債、賭博、飲酒、家内暴力などに由来する強制で、官憲による強制ではないのではないでしょうか」と指摘している。
 文章には当時の時代背景や、身をもって体験したR氏の切々たる意見が込められている。
 そして、韓国内の慰安婦に関する世論の動き関しては、「吉田清治(氏)のデタラメな自白書が翻訳出版されたのを機に 韓国で親北・左翼・反独裁勢力が反日運動を始めました」と訴えている。
 メールには「終戦後、1948年まで南朝鮮を統治していた米軍政府は朝鮮での戦争犯罪を捜査しました。そのとき、慰安婦強制連行を戦争犯罪として米軍政府当局に訴え出た記録はありません」とも書かれていた。
ここからは私のがんの治療に関するお話です
 グンツール女医から「がん腫瘍医師たちとのグループ討論の結果、放射線治療を試すことになりました」と告げられた。
 右側の腎臓を摘出してから6年目に肺にがんが散っていることが定期検査で判明して以来、幸いにも肺以外への転移は見られないが、問題は2つの大きながんが1年かけた免疫治療でも縮小しないことだった。
 「抗がん剤治療を受けている場合、放射線治療は同時にできないが、免疫治療の場合は関係ないので試してみましょう」と言われてから、早一週間で、がん治療における放射線の責任者である放射線腫瘍医との話し合いになった。

 説明を受けた英語の放射線治療名を検索すると、「体幹部定位放射線療法」とあり、専用の装置を用いて患者の姿勢を固定して、放射線をピンポイント照射すると説明があった。
 放射線の責任者から「病院を何度も訪れるのは大変でしょう? 1度の量を増やし、通院数を少なくして、1日おきで4回の照射で終わらせましょう。どう思いますか」と聞かれたが、受けたこともない治療に皆目見当もつかず「あなたが一番良いと思う方法でお願いします」と返事をした。
 週末を挟んで4日後、2つのがんの位置づけとして体の表と裏側に針先ほどの小さな入れ墨を入れられ、「これでは、日本に戻ったときに大衆浴場に行けないわ」と嘆いてみせると、その訳を知った担当者の2人は大笑いしていた。
 その2週間後からいよいよ放射線治療が始まった。初めに、体を固定させるギプスのようなボードの上に照射装置を操作する女性が乗ってみせ、「1時間、顔も体も動かしては駄目ですよ」と注意を受けた。
 これではもう、拷問に等しいと思うほどだった。まっすぐと上に伸ばした両腕で、ボードの両側に取り付けられたコの字形の金具を握る。
 顔面への放射線を避けるため、頭は少し下方になるようにボードは設計されていて、顔も体も微動すらできない。かといって眠りに落ちれば体が崩れるので1時間、必死の思いで耐え忍ぶ苦しさだ。
 やっとの思いで治療が終わったあと、初回の話し合いで合った放射線腫瘍医から「よく耐えた」と褒められた。そして「もし長時間の姿勢維持が苦しければ、照射時間を短縮して治療回数を増やすこともできますよ」と言われたが、苦しいことは早く済ませたいので「このまま続けましょう」と断った。
 事前に注意を受けた倦怠(けんたい)感や食欲低下、照射部位の皮膚の問題も全くなかった。

 最後の放射線治療が終わって4日目。グンツール女医と免疫治療を兼ねての話し合いで、「保険会社は治療費を負担してくれますから、このまま免疫治療を続けていきましょう」と言われた。ただ、あまりにも治療費が高価なので何か申し訳ないと女医に言うと「どうして?」と不思議そうな顔をされた。
 また、グンツール女医は短期に大量の放射線を与えたくないとのことで、PET検査は先延ばしとなり、9月末となった。
 私が「つまりPET画像を見るまでは結果が判明しないということですね」と、グンツール女医の顔を見つめると、すかさず「私、祈るわ」と言ってくれた。
 私は「今度はあなたの宗派であるヒンズー教だけでなく、仏教、キリスト、イスラムと全ての神様に祈ってね」と返し、2人で笑い合った。
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 【プロフィル】新田多美子(Tamiko Arata) 大分県津久見市生まれ。73歳。1983年に米ボストンに移住し、日本などからの留学者向けに住居の手配、生活用品の買い物、車購入と自動車保険など生活の立ち上げサービスの仕事をしている。
 現在は、がん治療を受けながら働く毎日。治療では、スイスのロッシュ社による新薬の免疫チェックポイント阻害剤「アテゾリズマブ」を使っている。早く認可が出た米国で、実際の治療を通して知見が得られている最新治療を受けることを聞いた私の回りの日本医師たちは、口をそろえたように「幸運だ」と言う。
 日本が恋しいわけではないが、誰よりも日本を愛し誇りに思う。ボストンから見る日本や、少し変わった日常の出来事などをコラムにし、日本ではまだ認可されていない最新のがん治療の様子も紹介していきます。