万博(1)1867年、パリの衝撃…開国間もない日本を「発見」

万博(1)1867年、パリの衝撃…開国間もない日本を「発見」


 パリは衝撃を受けた。開国したばかりの東洋の国、日本がパリの万国博覧会(万博)に出品した品々はあまりに洗練されていた。
 葛飾北斎らの浮世絵、磁器、精緻な工芸品…。1867年に日本が初参加したときのことだ。「鎖国していた日本の情報は乏しく、中国と区別すらついていなかった。パリ万博は欧州が日本を『発見』する場になった。和装で茶をいれる日本女性が人気で、来場者は艶やかな着物に見とれた」。歴史家でオルセー美術館学芸員のジュヌビエーブ・ラカンブルさんは、欧州での驚きを説明する。
 53年にペリー率いる黒船が来航し、日本が200年以上続いた鎖国から開国へと舵(かじ)を切った直後。衝撃のデビューだった。
 同じパリで今年6月、日本は2025年の万博の大阪誘致を目指し、ノーベル賞受賞者山中伸弥・京都大iPS細胞研究所長がプレゼンテーションを行っていた。「偉大な実験室とする」。21世紀の万博が実験の場なら、当時、日本は万博で何を目指したのか。
                   
 1867年4~11月のパリ万博に参加した「日本」は、厳密には幕府と薩摩・佐賀両藩の集合体だった。
 4月3日、フランス・マルセイユ港。羽織袴(はかま)に刀を携えた武士の一行が約2カ月の船旅を終えて到着した。将軍・徳川慶喜(よしのぶ)の異母弟、徳川昭武(あきたけ)(当時13歳)と幕臣使節だ。
 幕府は薩英戦争(63年)や下関砲撃(64年)で欧米の力を認識していた上、開国姿勢に転じていた慶喜はフランスとの関係を深めていた。松戸市戸定歴史館(千葉県)の齊藤洋一館長は「万博で日本の統治者としての幕府の正統性を示す必要があった」と話す。

 一方、薩摩藩使節は幕府より2カ月も早く、67年2月6日にパリに到着した。並々ならぬ意気込みの源は「世界に打って出ないと日本はだめになる。貿易で国を富ます」という、新しい時代への気概だった。
 NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」にわく鹿児島。鹿児島中央駅前にはパリ万博前の65年に薩摩藩から英国に渡った留学生ら19人をたたえる碑「若き薩摩の群像」が立つ。1人が後に大阪商法会議所(現大阪商工会議所)などの創設にかかわった五代友厚。万博への参加を藩に進言した張本人だ。
 薩英戦争などで海外事情を熟知していた藩は、すぐに出展を決めた。志学館大学の原口泉教授は「藩を指導する小松帯刀(たてわき)や大久保利通(としみち)、西郷隆盛の頭には外国貿易があり、万博参加を推進させた」とみる。
 パリ万博では幕府が巨費を投じて制作した飾馬(かざりうま)に乗る武者人形が話題を呼び、江戸商人が連れてきた3人の芸者が茶屋で日常生活を再現してパリっ子の人気をさらった。薩摩藩も陶器の薩摩焼や絹製品を出品し、精緻な造りは来場者を驚愕(きょうがく)させた。
 幕府と薩摩・佐賀両藩が同列に展示されたことで、跡見学園女子大の寺本敬子専任講師は「主権をアピールしようとした幕府の意図は挫折し、幕府の権威への懐疑がフランスで広がった」と話す。しかし日本文化は、世界へのデビューを果たせた。
 78年のパリ万博には明治維新を経た「日本」が出展。ジュヌビエーブさんは「陶器が人気で日本の茶器がたくさん模造され、浮世絵は印象派のマネやモネに強い影響を与えた。ジャポニスムはパリの2つの万博、さらにロンドン万博が発起点となって、欧州全域に広がる一大ブームになった」と総括する。

 65年に薩摩藩留学生らが船出した漁村、羽島(はしま)浦(鹿児島県いちき串木野市)。磯浜には陽光がきらめく。
 「かかる世にかかる旅路の幾度か あらんも国の為とこそ知れ」
 留学生の1人で、後の東京開成学校(現東京大学)初代校長、畠山義成(よしなり)は出航の決意を和歌にしたためた。攘夷(じょうい)論者だった畠山は国のためと自分に言い聞かせて遠い外国に旅立ち、明治の教育に多大な功績を残した。
 同じく荘厳な決意で万博に打って出た日本人たち。その思いが世界への道を開いた。
                   
【用語解説】万国博覧会
 世界各国が参加し、文化や産業を展示する博覧会。1851年のロンドンが最初で、1928年には国際博覧会条約で定義づけされた。日本は1867年のパリに初参加。1970(昭和45)年の大阪はアジア初の開催となった。