【川端祐一郎】米軍が落とせなかった橋

【川端祐一郎】米軍が落とせなかった橋

From 川端 祐一郎(京都大学大学院助教) 
去年の今ごろ、とある学会の発表会で、面白い研究発表を見ました。(ちょうど同じ発表会が今週末にあるので、ふと思い出しました。)
発表者は京都大学の工学部を卒業したばかりの小嶋さんという人で、内容は彼が卒業論文としてとりまとめたものだったのですが、発表会の司会を担当していた神戸大の先生と私がともに、「大学4年生の卒論でこんなに面白いものがあるとは」と感心するものでした。
ちょうど同じ頃、私が所属している研究室の学生の一人は、災害に強い道路ネットワークを作るための、橋梁の「耐震化」の効果を計算していました。大地震が発生した際、橋が物理的に損傷・崩壊すると道路ネットワークが寸断されてしまって、復興が大変になるからです。
一方、小嶋さんの研究発表は橋梁の「耐爆性(耐弾性)」に関するものでした。聞き慣れない言葉ですが、彼(と彼の所属研究室のチーム)が調査していたのは、第二次大戦中に、当時は日本領だった朝鮮半島に建設された、爆撃に耐える橋の構造です。
戦争中ですから当然、航空機からの爆撃による交通網の遮断は大きな問題となります。軍民ともに移動が妨げられますし、なにより兵站ロジスティクス)が途絶えてしまいますからね。ただし、鋼材の資源も限られていますから、橋を無際限に強化するわけにもいきません。
そこで朝鮮総督府の鉄道局は、「高い耐爆性能」と「鋼材の節約」を両立するような橋の設計を検討し始めます。小田彌之亮という鉄道局の技師が中心となって、東京帝大の田中豊教授、京都帝大の高橋逸夫教授、九州帝大の三瀬幸三郎教授の指導を仰ぎ、橋梁の新たな強化方式が開発されていきました。
中でも朝鮮(日本領)と満州の国境、今で言う北朝鮮と中国の国境に架けた「鴨緑江大橋」には、3つの異なる強化方式が組み合わされた冗長化が施されました。橋に加わる外力が正確に予測できるのであれば、それに的を絞って対策をすればいいのですが、爆撃が橋に与える衝撃は予測が極めて難しい。そこで、単なる「多重」の強化ではなく、「多様」な方式での強化を行うことにしたそうです。
橋の建設前には「構造計算」という作業が必要になります。たとえば、橋のある部分に外から力が加わった時、それが波及して他のどの部分にどれぐらいの負荷がかかるのかを算定し、強度が十分であるかをシミュレーションするわけですね。しかし計算の難易度がもともと高い上に、当時は今のような電子計算機がありませんので、機械式の手回し計算機というのを補助に使って計算をしていたらしく、非常に骨の折れる作業でした。
先ほどの教授陣が構造計算についても新たな工夫を行って、近似的な結果を効率的に算出する方法を考案したのですが、計算を始めて6ヶ月が経過しても成功の目処が立たず、一旦諦めたそうです。アプローチを少し切り替えてようやく前進し始めたものの、70本の数式からなる連立方程式の1つ目の解を求めるのにも15日間かかったと言いますから、大変な苦労ですね。
さて、この3重の冗長化が施された「鴨緑江大橋」ですが、幸いなことに日本が敗戦を迎えるまで直接の攻撃を受けることがありませんでした。しかし1950年に朝鮮戦争が勃発し、マッカーサー率いるアメリカ軍が北朝鮮側への攻撃を開始すると、鴨緑江大橋も激しい空爆を受けることとなりました。恐らく中国・ソ連からの支援のための輸送にも使われていて、米軍にとっては重要な戦略目標だったのでしょう。
ところが、米軍の航空機が多数の大型爆弾をもって攻撃を繰り返したものの、一向にこの橋を崩壊させることができません。困った米軍は、橋の設計に携わったのが小田技師であることを突き止めて呼び寄せ、「あの橋は特殊な構造になっているようだが、どこを狙えば落とすことができるのか」と尋ねました。小田技師は「橋脚に穴をあけて、爆薬を仕掛けて破壊するしかない」と答えたそうですが、これは要するに、上空からの爆撃で橋桁を落とすのは不可能だろうという自信の表われです。
米軍将校の一人が小田技師に「高給で雇ってやるから協力しろ」と提案しましたが、小田技師は「もう戦争には関わりたくない」と言って断ります。するとその将校は、「あの橋はどうしても落とせない。お前にはソ連から勲章が出るだろうな」と冗談を言って帰ったとか。そして結局、この鴨緑江大橋は戦争中の猛爆を耐え抜き、現在に至るまで国際連絡橋として使われています。
この橋の詳細な設計情報は軍事機密だったため、参照しやすい形では資料が残されませんでした。小嶋さんらの研究成果の一つは、小田技師が自身の博士論文に付録としてつけていた図面などいくつかの資料を発掘して、この耐爆橋梁の設計を再現することに成功したことです。また、帝大の教授たちが新方式を考案し、手回し計算機で実行した構造計算の結果が、最新のソフトウェアによる計算とピッタリ一致することも確認し、その精度の高さを明らかにしていました。
それだけ頑丈な橋を作り上げた戦中の日本の技術者はもちろん凄いのですが、断片的な資料をつなぎ合わせてその設計を再現するとともに、「多様な方式による冗長化」のような設計思想上の含意を読み取って、現在にも応用可能な知見を引き出した小嶋さんらの研究も素晴らしい。
古い史料を探し回って自分の知りたい情報を見つけるというのは、とても大変な作業です。私も以前勤めていた会社で、明治時代の郵便・宅配便や通信販売のサービス内容を調べるためにいろいろな資料に当たっていたことがあるので、よく分かります。
ひょっとすると、歴史の研究なんて趣味以外何の役に立つのかと言う人もいるかも知れませんし、民間企業の社史に関する調査となると、「そんなのは窓際族のする仕事」とすら思われがちです。しかし、危機や困難のあふれる状況下でなされた人間の工夫というものは、そのまま現代に適用できるとは限らないものの、よく検討すればいろいろな示唆を引き出すことができるものです。
先日、浜崎さんが日本の「大学改革」を批判するメルマガを書かれていました。歴史研究に限りませんが、「直接的」には役に立たないような研究ができる大学の環境は、何としても守らなければならないと私も思います。

【追記】
メルマガを配信した後に知りましたが、以下の文献で詳しい内容を知ることができます(卒論は未公開だと思います)。
高橋良和&小嶋進太郎(2018).朝鮮総督府鉄道局による複斜材型トラス橋梁の開発と建設.土木史研究 講演集,38,pp.261-270.