福島第一原発の事故は完全な人災だ  (養老孟司)

福島第一原発の事故は完全な人災だ  (養老孟司

養老孟司
「答え」はいつも目の前にある 見えていないのは「問い」の方だ
地震津波は自然災害だが、福島第一原発の事故は完全な人災だ。携帯電話には防水機能があるのに、原発の電源装置はなぜ水に浸かると使い物にならなくなるのか。その根本が私にはまったく理解できない。東京電力は電気が専門の「電力会社」だ。これは、ものすごい手抜きである。原発が安全か危険かの議論をしている間に、本当の意味での安全性が「嘘」になっていたのではないか。議論そのものが肝心な作業を妨げていたと言ってもいい。もっと悪く言うと、原発の反対派も推進派も、結果的に両者が共同して手を抜いていたということ。私が政治を嫌うのは、そういうところである。われわれの生活に関係があることは、賛成か反対かというイデオロギーで考えてはいけない。大切なのは、トータルで物を見る総合的な合理性である。そういう意味での「安心感」がない人が、非常に増えた。福島で起きたことは、部分合理性にしか目が向かなかった結果である。この震災が、自分に問いかけているものはなんなのか。最後は、教育に行き着く。長い間、アメリカ式の問題解決型教育になっていた。自然を見るということが理解されなくなってきた。葉っぱはなぜ重なることなく配列されているのかと言えば、最大限の日照をえるためだ。その効率性は、コンピューターで計算すれば、何通りも答えはでるのかもしれないが、ともかく葉っぱは重なっていない。自然は初めから「答え」を出している。見えていないのは、なぜかという「問い」のほうだ。人生は何のためにあるのかという質問に意味がないのは、人生はいろいろな問題に対する答えだからだ。頭で「自分の人生は何なのだ」と考えても、絶対に答えは出てこない。震災をふまえた提言と言われると、ああすればいい、こうすればいいという話になる。それも、私からすれば根本から意見が違ってくる。千年に一度の大地震が起きた。その結果が、目の前にある。けれども、被災者たち、われわれは、これからも生きていく。そのことになんら変わりは無い。探すべきものは、「答え」ではない。この震災から「問われているもの」は何かと言うことだ。