最近見つけた「うむむ~」と、うなるお話

『愛』とは、受け入れであり、奉仕なのです。
『憎しみ』とは、拒絶であり、破壊なのです。
いづれも、感情は同じ所から出ています。

仏教の教えで、この様な言葉があります。
愛別離苦』(あいべつりく)
これは、人間が生きていく道には
どれだけ、愛していても、恋していても、
別れなければならない。と言う『苦』。
『怨憎会苦』(おんぞうえく)
人間が生きて行くには、
逢いたくも無い、話したくも無い、
まして、顔を見る事も嫌。
その様な人に頭を下げなければならない『苦』。
これはいづれも『苦』。なのです。

したがって、『愛』も『憎しみ』も、出所は同じなのです。
しかし、本質的には大きな違いが有ります。
『愛』は、喜びであり、受け入れであり、奉仕なのです。
相手を何とかして喜ばせたい。
相手の幸福を願い、
相手を思い、そんな自分を喜ぶのです。
『憎しみ』は、拒絶なのです。
『貴方からは何もして欲しくは無い!』
この様に、拒絶をします。相手を無視したい。
これは、自分自身を破壊しています。

では、如何して、この感情が簡単に変化するのでしょう?
『愛してる。』(人と人、親と子、の関係を含む。)
『私がこれだけ貴方を愛しているのだから、』
と、期待をする。
これは、本当の『愛』では無いのです。
これは、駆け引きなのです。
『お前の事をこれだけ愛して育てたのだから、大学に入学しなさい。』
これは、親のエゴなのです。
『貴方に全てを捧げ、尽くしたのだから、結婚してください。』
これも、エゴなのです。これを人は『愛』と呼んでいます。
そこに問題が有るのです。
だから、『愛』が『憎しみ』に替わるのです。
『可愛さ余って、憎さ百倍』と、言う言葉があります。
この『可愛さ』は愛では有りません。駆け引きになっているのです。
本当の『愛』は奉仕その物です。
捧げる事に喜びを感じ、
奉仕する事に喜ぶ。
これが本当の『愛』なのです。
この『愛』は決して変化しませんし、条件を出しません。

つまり、一般的に言う『愛』の解釈が間違っているのです。
真実の『愛』を知っている人には、『憎しみ』の感覚がありません。
愛が憎しみに変わる愛は、愛では無いと言うのが私の結論です。
感情だけの愛は変化しますし、
いづれ飽きる事でしょう。
それを愛とは言いません。それを『エゴ』と言うのです。
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僕が若いとき、そう20歳代で他人に対する思いやりとか、人と人との関係についてあまり考えたことがなかった時のエピソード・・

とある遊園地で、若い女性(母親)に対して小学生くらいの子どもが暴力をふるっている場面に遭遇した。
女性は黙ってされるままになっている。
それがあまりにも酷いので、おいらは思わずぼうずを突き飛ばした。
そしてその子どもに対して、威圧した・・
黙って威圧した・・
子どもは恐れおののいていた・・

女性はおいらに「ありがとうございます」と言った・・
そして、おいらは黙ってその場を去った。
この事が、何時までもおいらを悩ましている。

なぜ突き飛ばしたのか?
なぜ手を押さえて「親に手を挙げることは絶対にやってはいけない」と、諭さなかったのか?
状況に最良の対応をしたとは絶対にいえない。
おいらは自分のエゴで暴力をふるったということ・・
それも小さな子どもに対して・・

ごめんな・・きっとトラウマになっただろう。
許して欲しいと言っても、伝わるはずも無く・・
なんてことをしたんだろうって後悔だけが残り続けている。
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