日本が暴力に屈した日

日本が暴力に屈した日


朝銀をめぐって最初のトラブルが起きたのは1967(昭和42)年のことである。東京在住の総聯商工人で、のちに暴力団員に殺された具次龍氏の脱税容疑で、国税当局は氏の取引先である朝銀の前身、同和信用組合台東区上野)に資料の提出をもとめた。

同和信組はこれを拒否した。国税局は強制捜査をおこなうことにした。ところが同和信組はシャッターをおろし捜査を実力で阻止した。国税局は機動隊をともなって、バーナーでシャッターを焼き切り、強制捜査を実施した。

これを契機に総聯は、全国の総聯系在日朝鮮人多住地域の税務署に「抗議行動」をかけた。各地の税務署で業務妨害が発生した。このとき日本政府は、国家公務員たる税務署員にたいする公務執行妨害でこれを取り締まろうとしなかった。国税局と具次龍氏との脱税に関する和解は1976(昭和51)年に成立した。

その後、先に紹介した国税庁朝鮮商工会との税金に関する「合意」なるものが交わされた。すなわち社会党の故高沢寅男衆議院議員の部屋で、氏を仲介者として国税庁朝鮮商工会幹部の話し合いがおこなわれたのである。
「現代コリア研究所」はそのときの出席者の名簿をもっている。

この具次龍氏の事件以来、総聯は気に入らないことが起きると行政官庁やマスメディアなどに「抗議」という名の「暴力」を公然とふるうようになった。

私は1967年の「抗議行動」を、第二次世界大戦後、日本が総聯の暴力に屈した恥ずべき日と記録している。ここに紹介したような事例は、いまにいたるまで、あちこちでみられる。

1985(昭和60)年12月、関東国税局は東京都北区在住の総聯商工人を脱税容疑で強制捜査した。すると、関東国税局にはもっとも多い日で1日600名の「抗議」が来た。少ないときで100名である。

国税局の業務は麻痺状態に陥った。局内では「上はなにをしているのか。仕事にならない」という声がでた。警視庁からは「年末の忙しいときに国税はなにをやっているのか」という不満の声が聞かれたという。

国税局ぱかりではない。大韓航空機を爆破した金賢姫が、ソウルで初めて記者会見したとき、私はテレビ朝日の夕方の番組に解説者として出演した。キャスターから「金賢姫は北の人間ですか」と問われたので「間違いないものと思う」と私は答えた。

その直後からフロアがざわつきはじめた。放送が終わってフロアにおりると責任者が飛んできて「先生、大丈夫ですか」という。
「なにがですか」
「先生の発言にたいして抗議の電話が殺到して、局の電話線がパンクしそうです」

まもなく私はフジテレビに出演して同様のことを話した。そのときは総聯の抗議団がテレビ局に来たという。

まだある。当時私は、日本テレビにもよく出演していた。あるとき日本テレビの記者が総聯へ取材をしにいくと「あんな男(つまり私のこと)を使っていると総聯に出入り禁止にする」といわれたという。私はそのことを記者から直接聞いた。

あのころは私が出演する番組には抗議の電話を集中してかけていたようだ。テレビ局は解説者のいっていることの可否ではなく、抗議に対応する煩わしさから、私のようなコメンテーターを敬遠することになる。かくして総聯は気に入らない人間の発言をテレビ界から追放することができた。

私は公安当局者をはじめいろいろな人から「身辺に気をつけてください」といわれた。これは日本人が総聯の直接間接の「暴力」をいかに怖がっているかの証拠である。

だが、総聯を支持する在日朝鮮人はいまや赤ん坊も含めて十万人しかいない。日本人の人口は一億二千万だ。いつまでも総聯を怖がっていれば、「暴力」をちらつかせることによって、十万人が一億二千万人の言論を支配できるということになる。これは日本にとってきわめて深刻な問題ではないか。

「日本外交はなぜ朝鮮半島に弱いのか」 佐藤勝巳 2002年 草思社より