ノーベル文学賞、そこまでして村上春樹を避けたいのか

ノーベル文学賞、そこまでして村上春樹を避けたいのか 11月号 早稲田大学教授・石原千秋

http://www.sankei.com/images/news/171029/lif1710290026-n1.jpg石原千秋さん

 ノーベル文学賞カズオ・イシグロに決まった。昨年ボブ・ディランに決まったときには「こういう手があるのか」と思ったが、今年は「こうまでして避けたいのか」と思った。もちろん、村上春樹のことだ。「文学界」では、沼野充義が選考委員会は村上春樹文学の女性の書き方がお気に召さないようだと指摘し、都甲幸治はアメリカでは村上春樹はもう終わっていると指摘している。いずれにせよ、ノーベル文学賞はいわば直木賞系にシフトしたことになる。

 加藤典洋東浩紀との対談「私と公、文学と政治について」(群像)でまたトンチンカンなことを言っている。「テクスト論者が、作品におけるテクストで書き落とされること、つまりレティサンス(故意の言い落とし)ということのもつ意味に無頓着だったことに通じますね。テクスト論は書かれたものをしか相手にできないので、テクストのここに実は言われていない重要なことがあるというのは、作者を想定しないとそんなことは言えないため、ルール違反、禁じ手になります。その結果、テクストから『ないこと(秘密)』がなくなってしまう。テクスト論は作者と一緒に作品から『語られないこと(秘密)』をも駆逐してしまった」と。作者が何を「故意」に言わなかったかがわかるとは、加藤典洋は読心術でも心得ているのだろうか。

 今月の文芸誌は温又柔(ゆうじゅう)だらけ。その中で、リービ英雄との師弟対談「なぜ日本語で書くか」(文学界)は、誌上でのゼミ指導の趣があって面白かった。リービ英雄は温又柔の『真ん中の子どもたち』について、「僕があの小説を読んで不安に思ったのは、これは管理された上品な留学生活の話だということ。場所は上海で(中略)高層ビルばかりで、でもその下に、自身の二百年分の給料を払ってもマンションを買えないような人たちがウロウロしているはずなのに、それが全く出てこない」と厳しい。これがまさにテクスト論的に「語られないこと」を暴く方法なのだ。意図的であるかないかを問う必要はない。僕がいつも授業で話している方法である。加藤はいったい何をもってテクスト論だと想定しているのだろうか。

 今月は新人賞の月。何度か批判したが、受賞作よりも選考委員が前面に出てくるいかにも権威主義的な誌面構成がいっさいなくなったのはよかった。
 文芸賞の若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」のタイトルは、言うまでもなく宮沢賢治「永訣の朝」の本歌取り。もうろくした桃子という女性の半生を、東北弁をうまく交えながら書く。結婚後は「周造の理想の女になる、そう決めた」あたりで、これは安っぽいフェミニズムが来るかなと思って我慢して読んだら、「周造のために生きる。自分で作った自分の殻が窮屈だと感じ始めたちょうどそのとき、もう周造を介在せずに自分と向き合っていたまさにそのときに周造が死んだ」という一節にピンと来た。しかも、その後に「おらおらで、ひとりいぐも」が来る。これで桃子がくっきり独り立ちした。みごとな作品だった。文芸賞ぽくないのにこの作風を受賞作とした選考委員にも拍手。

 新潮新人賞は、佐藤厚志「蛇沼」と石井遊佳百年泥」。「蛇沼」は「八年前急に死んだセイコ」をめぐる地方の不良たちの暴力を書く。文章の力はあるが、それ以上でもそれ以下でもない。選考委員の大澤信亮(のぶあき)が「セイコを強姦して死に追いやったのはケイスケではない。君なのだ。それを世に問う罪の一端を私も担おう」と力みかえっていて笑った。「文壇版道徳の時間」だ。「百年泥」は、インドで日本語教師をする羽目になった女性の現地リポートのようなもの。それ以上でもそれ以下でもない。すばる文学賞は、山岡ミヤ「光点」。「わたし」の相方の「カムト」の輪郭がはっきりしないのが短所でもあり長所でもある。次も読もうと思わせる力はない。