外交官の私は流暢な日本語の中国美人スパイに誘われた!
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店頭で客を出迎えるかわいらしいアヒルの人形は、これから北京ダックを食そうという人々の罪の意識を和らげているだけでなく、この店と政治外交とのえもいわれぬ深い結び付きをもカモフラージュしているかのようだ。
その一角にある全聚徳清華園店。グーグル北京オフィス(*1)から目と鼻の先の北京ダック屋にこの日集まったのは、私の留学先である国際関係学院と日本のシンクタンク関係者だった。
【*1:当時。その後中国政府と検閲を巡って争い撤退を余儀なくされた。】
大学で開かれた研究会の打ち上げと位置づけられていたこの宴席。私はセミナーへの参加からの流れで出席した。個室にはいくつかの円卓が並んでいた。円卓を囲んで酒をあおるのが中国流の宴会だ。
私が何気なく選んだ席の隣に座ったのが王小姐だった。日本男子にも受けがよさそうな細身の美女だった。色白で年の頃は二十代か。流暢な日本語を操る彼女だったが日本には行ったことがないという。
日本に住んだことがないのに日本語が驚くほどうまいという中国人はたくさんいる。その昔、電子辞書がない時代には紙の辞書を最初から最後まで丸暗記する学生がいたというから、その熱心さには頭が下がる思いだ。しかしその動機がスパイとなるためだったとしたらどうだろうか。
◆美女は人民解放軍出身か
外国語の習得とは元来は外国への工作活動に従事するのが主な目的だった。歴史を紐解けば、戦国時代に来日した宣教師は日本語をポルトガル語で解読した日葡辞書をつくった。日本への布教をスムーズに行うためだった。
北朝鮮の拉致問題とも関係する。9月の国連総会でトランプは横田めぐみさんに言及。拉致問題の大きな画期となった。トランプが演説で述べたように、その動機は拉致被害者を北朝鮮工作員の日本語教師に仕立てようという身勝手極まりないものだった。
折しもニュージーランドでは諜報機関である保安情報局が、その外国語学院の卒業生をスパイ容疑で捜査している最中だ。ニュージーランド国民党の国会議員である楊健は中国江西省出身。修士号を洛陽外国語学院で取得しオークランド大学で教鞭を執った。ニュージーランドに帰化して政界に転じた人物がスパイだとしたら、筋金入りだ。人民解放軍の回し者が国会議員だというところに背筋が寒くなる。
男は軍事転用が可能な技術を持つ機械工業メーカーなど複数の日本企業関係者と接触。諜報機関を傘下に持つ軍総参謀部と定期的に連絡を取り合っていたという。私の隣の王小姐も洛陽で日本語を身につけたスパイかもしれない。
彼女が達者な日本語で尋ねてきたのは日本の政治や外交政策についてだった。私が彼女と出会った6年前の日本は民主党政権の時代だった。発足したばかりの野田佳彦政権はTPP参加を検討。彼女も日本がTPPに入るのかという点に強い興味を抱いていた。
TPPはその経済効果もさることながら、地政学的には日本とアメリカがアジア太平洋の中小国を引き連れて中国を封じ込めることを意味する。一帯一路とAIIBを掲げることになる習近平政権はまだ発足していなかったが、TPPは中国にとって危険だという嗅覚は王小姐にも充分働いていた。
スパイというと猿轡を嵌めて拷問紛いのやり口で何とか機密を聞き出そうとすると読者は想像するかもしれない。王小姐の聞き方にはそこまでのハードさはなかった。TPPといった時事的な争点について質問し、日本政府に属する人間がどう答えるかに静かに聞き耳を立てているという印象だった。
この手の人間はヒートアップして議論することはまずない。例えば尖閣問題といったこちら側と中国共産党と考えが明らかに異なる話題であっても、むきになって反論はしない。スパイの目的は論破することではなく、こちらの思考回路を探ることにあるからだ。
王小姐もその辺りは心得ている様子だった。その一見自然ではあるが、ある意味ではこなれた様が却って私に確信させた。これはスパイだと。
美人スパイが隣でふんふんと頷いているからといって、ペラペラ何でもかんでもしゃべってはどつぼに嵌ってしまう。酒が入っていても口にするのは日本政府の公式見解にとどめなければならない。
ここからは私の想像だが、王小姐は天津に戻ってから私や他の日本からの参加者の発言をメモにして研究所に報告したのではないか。ジグソーパズルを繋ぎ合わせるように膨大なレポートを集積することで、日本側の意図を分析するのが中国の情報活動のスタイルだと言われている。
美人スパイに唯一強引さが見られたのは私を天津に来るよう誘った時だ。ややくだけた中国語で親しげなトーンのメールが別の機会に届いた。静かなる接近とは対照的な積極姿勢。スパイが獲物に襲い掛かる前触れだ。この誘いは当然危険と判断して、その手には乗らなかったところ、潮が引くようにアプローチはなくなった。(文中一部敬称略)