「古き良き中国」は日本にあり~自らの文化を再発見する中国の人々

「古き良き中国」は日本にあり~自らの文化を再発見する中国の人々

2017年06月20日

唐の時代を現代の日本に見る

 「漢・唐は日本に在り、宋・明は韓国に在り、民国は台湾に在り」
 こういう言い方が中国にはある。つまり漢王朝(紀元前206~紀元後220、途中、前漢後漢に分かれる)や唐王朝(618~907)の文物や風習は日本に残り、宋(960~1279)や明(1368~1644)のものは韓国に残っており、中華民国時代のものは台湾にある――という意味だ。そして最後に「清朝(1644~1912)のものは中国大陸にある」というオチが付く。そこには言外に「たいしたものが残っていない」という知識人の自虐が込められている。
 もちろんこれは一種のジョークである。しかし近年、中国の人々が豊かになり、日本のビザが取りやすくなって、多くの人が自分の目で日本を見るようになると、言葉遊びだった「漢・唐は日本に在り」がにわかにリアリティを帯び始めた。
 「日本の京都はその昔、唐の都・長安を模してつくられた」「奈良の唐招提寺は唐代の高僧・鑑真和尚ゆかりの寺である」といった知識は以前からあった。しかしほとんどの人は日本を見たこともなかったし、「どうせ中国のミニ版だろう」くらいに考えている人が多かった。事実、1980~90年代、中国からの訪問客を京都や奈良に案内しても強い関心を示す人は少なかった。
 ところがここ数年、京都や奈良の人気は急上昇している。「もう一回行きたい」「長く住んでみたい」という人が私の周囲でも非常に多い。もちろん個人差はあって、所得や学歴、社会的地位の高い人ほどこの傾向は強いように思う。
京都の古い街並み。唐代の都・長安を重ね合わせて見る中国人客も多い

「京都・祇園で思わず涙が出た」

 妻の仕事の関係で、私は中国ではデザイナーや画家、フォトグラファー、雑誌編集者といったアーティスト関係の中国の友人知人が多い。そういった世界の人たちは、ほぼ例外なく日本文化の熱烈なファンである。
 その中の1人に画家の男性がいる。中国画を書く人だが、書の評価も高い。十数年前、無名の時代からの付き合いで、当時は絵が売れず、家でよくご飯を食べさせたりしていたが、今では壁に掛けるような小さな作品が日本円で何百万円もする。欧米からも作品を買いたいという画商が引きも切らないという人である。
 3年ほど前、彼は初めて日本に行った。京都の祇園界隈で知人と食事をした時、街のたたずまいに衝撃を受ける。彼が長いこと漠然と頭の中に思い描いていた夢の都・長安が、突如として眼前に現われたのである。夜、どうしても眠れず、未明に1人、宿を出て通りをさまよい歩いたという。
 「あの光景は忘れられない。世界にこんなところがあるとは思わなかった。誰もいなくて、死ぬほど静かで、簡潔で端正な家並みがぼんやりと光に浮かんでいる。まるで夢を見ているみたいだった」
 呆然と立ち尽くしているうちに、涙が出てきたという。
夜の祇園の街並み

庶民のレベルの高さに驚く

 その彼が日本で驚いたことがもう一つある。
 街を歩いていたら偶然、骨董市のような催しがあった。覗いてみると、骨董や古本などに混じって無造作に積まれた古文書の束が売られている。手にしてみると「かな」はわからないが、漢字は読める。どうも昔の商家の帳面のようなものらしい。使い回しの紙の裏側に書きつけたようなものもある。
 驚嘆したのは、その字の素晴らしさである。
 彼は書家だから、字の良さはわかる。明らかに実務的な文書であるにもかかわらず、その筆の運びは素晴らしく、しっかり訓練した人が書いたものだと一目でわかった。商家の文書だから、書いたのは貴族や役人ではなく、一介の庶民に違いない。値段を聞いてまた驚いた。1枚わずか数百円で、こんな値段で山積みにされているのだから、このような文書は珍しくもないのだろう。大昔の市井の人がこんな字を書く。「日本はつくづくすごい国だと知った」と彼は言う。

ドイツで谷崎潤一郎「陰影礼賛」を読む

 もう1人、上海でインテリアのデザイン事務所を開いている友人が「日本」と出会ったのはドイツの大学に留学していた時だった。
 彼は中国で美術大学を卒業した後、工業デザインを学ぶためにドイツに行った。授業で渡されたのが谷崎潤一郎「陰影礼賛」、もちろんドイツ語版である。当時、彼は日本に特段の興味があるわけでもなく、谷崎の名前も知らない。当時のドイツ語のレベルでは何が言いたいのか皆目わからなかった。
 しかし、悪戦苦闘して読み進むうち、非常にユニークな視点だとわかってきた。要約すれば、ものの美しさはそれ自体にあるのではなく、光線によって生まれる陰影にある。明るさだけでなく、陰の部分に着目する日本の美意識に大いに得るものがあったという。
 「陰影礼賛」は今では中国語版も出版され、ちょっと大きめの書店ならどこでも売っている。アートやデザイン関係者の間では必読書の一つである。彼は余白にびっしりと書き込みのある留学時代の本を今でも大切に持っている。
谷崎潤一郎「陰影礼賛」のドイツ語版。中国語の書き込みでいっぱいになっている

唐代がコンセプトのレストラン、モデルは京都

 その彼が中国に帰国後、立ち上げたデザイン事務所は成功し、全国各地で大きなプロジェクトに参画している。いま取り組んでいるのが、上海市内の高級大型レストランのプロデュースだ。コンセプトは唐代の長安。当時から国際都市だった長安の繁栄を念頭に、中国モチーフを主軸にしながらも華美に走らず、シンプルで、上質な空間にしたいという。
 彼の頭の中にあるイメージは京都である。前述した画家の友人と同様、彼も数年前に初めて訪れた京都の街で衝撃を受けた。
 「こんなところがすぐ隣の国にあったのか――とまず驚いた。ドイツに9年間いたのでヨーロッパの街の美しさはよくわかる。でも京都は全く違う。なんとも言えない心地よさのようなものがある。シンプルで上品で、そのセンスは本当に素晴らしい。でも翻って考えると、過去の歴史において我々中国人が失ってしまったものはあまりにも多い」
 彼とはこの夏、長安の面影を求めて京都と奈良を一緒に巡って歩く予定で、楽しみにしている。

枕草子」がブームに

 こうした中国の知識層の考え方に、ここ数年で大きな影響を与えた日本の本が2つある。一つは清少納言の「枕草子」、もう一つが中国国内でも出版された「講談社 中国の歴史」である。
 枕草子はご存じの通り、平安時代中期、第66代一条天皇の皇后、中宮定子に仕えた清少納言が1001年ごろに書いたとされる随筆である。中国では唐王朝崩壊の後ぐらいにあたる。中国語版はいくつかあるが、最も評価が高いのは周作人の訳によるものだ。周作人は中国の国民的作家、魯迅(周樹人)の弟で、若くして兄と共に日本に留学、帰国後は中華民国時代に北京大学教授などを歴任、社会主義中国となった後も大陸に残り、外国書籍の翻訳などに従事した。文化大革命の迫害の中、1967年に82歳で亡くなっている。枕草子の翻訳の完成は1961年ごろとされる。2015年3月、上海人民出版社から新装版が出て、一躍「枕草子ブーム」が盛り上がった。
 春天是破暁的時候[最好]。
 漸漸発白的山頂,有点亮了起来,紫色的雲彩細微的横在那里,[這是很有意思的。]
 春はあけぼの。
 やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
 (中国の簡体字を日本の漢字に置き換えた。[ ]内は訳者の補足)
ネットショップで売られている「枕草子」。このサイトだけでも4500以上も評価の書き込みがある

平安朝と唐の文化の深いつながり

 枕草子が中国の人たち、特に若い層に人気を呼んだ背景は中国国内でもさかんに分析されている。私なりにまとめてみると、以下の3点にあるように思う。
(1) 作者、清少納言の個人的魅力
(2) 日本的な感性「をかし」の新鮮さ
(3) 平安朝と唐との文化的なつながり
 日本語で読んでもわかるが、清少納言という女性は実に聡明、利発で感性の豊かな人である。発想が前向きで、ジメジメしたところがない。中宮定子との才気あふれるやりとりに見られるように、反応の速い、パキパキした女性を好む中国人読者の嗜好に合っている。「1000年も前の日本にこんな女性がいたのか」という純粋な驚きがある。
 2番目の「をかし」だが、これまで日本的な感性というと、中国では「物之哀(もののあはれ)」という表現が知られてきた。これは源氏物語の影響が強い。しかし枕草子のトーンは大きく違う。四季の変化や身の回りの小さな出来事に着目し、わかりやすい表現で描写する。人生の楽しさのようなものが感じられる。中国人の読者は、中国の唐とほぼ同時代の日本で生きた女性の細やかな感性に感動する同時に、現代の自分との距離感の少なさに強い共感を覚えている。
 そして平安朝と唐の文化的なつながりは、まさに中国人読者ならではの感慨と言えるだろう。枕草子の文中に唐の文学者、白居易の詩文集「白氏文集」が引用されていることはよく知られている。「白氏文集」は845年に完成、日本にはその後まもなく伝来し、平安朝の文化に大きな影響を与えた。
 「少納言よ。香炉峰の雪いかならむ。」
 と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせたまふ。
 というくだりは、かつて日本の教科書にも採録され、よく知られている。中国でも枕草子ファンの間で熱心な議論が交わされており、「この質問だけですぐに白居易の詩の話だとわかるなんて、日本の貴族の教養はどれだけ高いの!」などと感嘆の声が上がっている。
 (蛇足ながら解説すれば、香炉峰とは中国江西省の廬山(ろざん)の一峰で、形が香炉に似ている。白居易の詩の中に「香炉峰の雪は簾(すだれ)をかかげてみる」という一節があり、中宮定子はこの詩を清少納言が知っているか試したのである。期待通り清少納言が簾をかかげて見せたので、中宮定子は満足の笑みを浮かべた――という話である)
枕草子」ファンが集まるサイト。内容について熱心に議論されている。「紫だちたる雲の……」イラストも見える

日本の学者たちが書いた中国史が中国で大ヒット

 そしてもう一つの日本の書籍が「講談社 中国の歴史」である。日本では2004年11月~2005年11月にかけて全12巻が刊行された。中国では近代史2巻を除いた10巻が中国語版として2014年1月に広西師範大学出版社から発売され「2014年内だけでも10万セットを突破する勢いとなった(なお、元版の日本語版は値段が高いこともあり各巻平均で1.5万部程度の売れ行きであった)」(ウィキペディア)というほどのヒット作となった。
 2014年といえば尖閣諸島問題などで両国の政治的関係は微妙な時期で、日本人が書いた歴史書が中国で出版されたこと自体、驚きであった。それどころか中国共産党機関紙「人民日報」など政府系のウェブも「世界的視野を持った中国史だ」などと高く評価する記事を次々と掲載した。このあたりの動きは、表向きは強硬な姿勢を決して崩さないが、知識人相手には時に意外なほど柔軟な態度をとる中国政治の懐の深さがうかがわれる。
講談社 中国の歴史」中国語版。第8巻「疾駆する草原の征服者―遼 西夏 金 元」と第9巻「海と帝国――明清時代」。中国で大きな反響を呼び、異例のヒット作となった

漢民族の中国」と「帝国の中国」

 全10巻のうち最も話題になっているのが第8巻「疾駆する草原の征服者―遼 西夏 金 元」、そして第9巻「海と帝国――明清時代」の2冊だ。具体的な内容はぜひ本書をお読みいただきたいが、日本版の説明には以下のようにある。
 第8巻「唐王朝を揺るがした『安史の乱』は、600年におよぶ大変動の序奏だった。(中略)多極化と流動化のはてに、歴史の統合者たる大モンゴル国が浮上する。現代もなお生きる『巨大帝国』誕生のドラマ」
 第9巻「モンゴルが切り拓いたユーラシアという大きなシステムの上に展開する、壮大な『海の歴史』としての明清五〇〇年の歴史」
 この本が中国の知識人たちに与えた衝撃を一言でいえば、それは中国の歴史を「漢民族の中国」と「帝国の中国」とに明確に分け、説明して見せたことにある。
 漢代以降、約2000年の中国の歴史をざっくりと見ると、前半1000年は唐王朝を全盛とする「漢民族の中国」の時代といえる。歴史の主要な舞台は今の中国のような広大な国土ではなく、いわゆる「中原(ちゅうげん)」で、広さでは今の数分の1、都市で言えば北京より南、上海・杭州より北、西安より東――といった範囲になる。日本が度重ねて遣唐使を送り、平城京平安京が唐の都・長安をモデルにつくられたことは前に触れた通りだ。
 一方、唐の末期ごろから草原の東西交易などで力を付けた北方民族の勢力が次第に強くなり、唐の滅亡後、13世紀にはモンゴル族元王朝を建て、17世紀になると満洲族清朝が成立する。このように後半1000年の中国は異民族支配を軸にした多民族で多様性に富む「帝国の時代」となっていく。つまり唐王朝の後ぐらいを境に中国という国の性質は大きく変容したという論考がなされている。

漢民族の中国」への強いシンパシー

 このような見方を提示した歴史書が、なぜ中国の知識人たちに広く受け入れられたのか。それは彼(彼女)らが潜在的に持っていた思いと合致したからである。
 現在の中国は多民族国家を標榜するが、現実には漢民族が9割以上を占める、漢民族中心の国である。そのことは今でも中国語を日常的に「漢語」と呼び、漢民族以外の「少数民族」に各種の優遇政策を取っていることからも明らかだ。
 これは私個人の実感値だが、社会の主流をなす漢民族の知識人たちには「漢民族中国の全盛期」ともいうべき唐代を美化し、その時代に憧れる気分が根強くある。特にここ数年、中国の国際的な地位向上とともに、自国の文化に対する関心が高まり、むやみな西洋崇拝を脱して中国固有の文化を見直そうとの気分が強まっている。その主要な対象が理想化された唐代になるというわけだ。
 その根底には、唐代以降の1000年、異民族の統治によって「古き良き中国」が破壊され、中国は長い停滞の時代に入ってしまった――という認識がある(その認識の当否はここでは論じない)。そして当然ながらその先には、過去150年ほどの日本も含む帝国主義列強の侵略により中国はひどい目に遭い、さらにその後のイデオロギー色の強い政治体制によって中国の伝統文化や社会の美風は徹底的に失われた――とのやりきれない思いもある。
 もちろんこんなことを言っても仕方がないことはみなわかっている。多くの人は現在の生活に大きな不満があるわけではないから、声高に言う人はいない。しかし多くの中国の人々が日本を訪れ、長安を模してつくられた京都の美しさを目の当たりにし、唐の文化に親しみつつ、生き生きと暮らしていた清少納言の文章を読むにつけ、「我々の失ったものはあまりにも大きい」と意識するようになったことは事実である。
唐の都・長安(現・陝西省西安市)のシンボル・大雁塔。三蔵法師がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために建立された

日本人と中国人、深いコミュニケーションの可能性

 今後、中国の人々はますます自国の文化に対するプライドを高めていくだろう。ヨーロッパの人々にギリシアやローマがあるように、中国には唐の文化がある。そんな位置付けかもしれない。その唐代の文化が最も色濃く残るのが日本だというのは歴史の皮肉であるが、これは中国人と日本人が深いレベルでコミュニケーションできる独自の道筋でもある。これを活かさないのはもったいない。
 訪日中国人客の経済効果もいいけれども、昨今日本にやってくる中国人の中には、こんな思いを持つ人も少なからずいることを知ってほしいと思うのである。