日本統治時代の小学校

日本統治時代の小学校

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朝鮮の教育近代化を推進していた日本は、学校の建設にあたって、「国語(日本語)能力の差」が存在するという現実を勘案して、初等教育を小学校(日本学生)とは普通学校(朝鮮学生)に分けた。
朝鮮人の児童は、学齢期に到達するまで、家庭で韓国語しか使用していないからである。
ただし軍人や官職従事者や名門の子供など、一部の朝鮮人の児童が、日本人が主に通っている小学校に通う場合があった。
二つの学校の名称(小学校、普通学校)はその後「小学校」に統合されたが、朝鮮人学生と日本人学​​生がそれぞれ通う学校の区分は存在し続けた。

日本統治時代、朝鮮第一の名門校だった京城師範附属小学校には二つの学校が存在した。
同じ敷地内に、主に日本の学生が通う第1小学校と、朝鮮の学生が通う第2小学校があった。 
1937年に生まれた金正男の母親の成恵琳は、終戦当時そこの第2小学校に通っていた児童だった。 
「日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想」という本を書いたパクチャンウン(朴贊雄、1926年生まれ)さんもこの学校の卒業生である。
パクさんはこのように語っている。

「日本の学生が通っている第1小学校と、朝鮮の学生が通っている第2小学校の建物は、運動場を挟んで向かい合っていました。しかし我々が6年間通っているとき、第1小学校の日本の学生たちとお互いに反目したり喧嘩したりした記憶が全くありません。4年生の時に学校の建物が新築されましたが、その建物には当時京城帝大にすらなかった水洗トイレが完備されました。その最新の新築建物を日本の学生が使用するようにして、朝鮮学生はそれまで使っていた建物を継続して使ったとしても、誰も文句を言う人などいませんでした。しかし日本は、新築の建物を朝鮮の学生が使用するような割り当てをしたのです。」

今年(2018年)1月に98歳の誕生日を迎えた「上野瓏子」さんは、日本の学生と朝鮮の学生を相手にどちらの教壇にも立った経験がある。 「上野」さんは2年前、「おばあちゃんの回想録 木槿の国の学校 日本統治下の朝鮮の小学校教師として」という本を出した。
上野さんは1920年全羅南道で生まれ、高等女学校を卒業し、1939年に朝鮮学生が主に通っている榮山浦南小学校の代用教員になった。
初年度の月給は40円(現在の価値で8万円前後)で、その翌年に正式教員になり、外地手当や住宅手当などを含めると約70円の月給になった。
朝鮮人学生の月謝は55銭(現在の価値で1000円前後)と非常に低いレベルに抑えられた。
小学校に入学する学生は毎年増加していった。

「榮山浦南小学校の校長は日本人で、副校長(教頭職)は朝鮮人でした。一般の教師は日本人と朝鮮人が同じ数だけいました。一度、成績が優秀な朝鮮人の学生を級長にしようとしましたが、日本人校長が難色を示しました。」と上野氏は語った。
統治する側と支配される方が同じではなかったわけだ。
併せて上野さんは、「当時日本が実施した教育について、一般的な朝鮮人がどのように受け止めていたのか正確には分かりません。ただ、戦後韓国の教育改革に邁進した韓国の方々は、日本統治時代の日本の教育が、韓国の教育制度の根幹を成し、人材育成の基盤となったことについて感謝しています。」と語った。
このような点について今日の韓国人は、知っている人しか知らない。

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