「玉音放送」を境に日本人と朝鮮人の立場が逆転した、あの瞬間

玉音放送」を境に日本人と朝鮮人の立場が逆転した、あの瞬間

少女Cが語る「終戦」の記憶
崔 碩栄

1945年8月の満州-夜の街に流れた噂

1945年8月13日の夜、満州国新京特別市(現・中国長春市)。ひどく急いたように門が叩かれる音に少女Cは目を覚ました。町内会の班長さんだ。母親と班長さんが小声で交わす会話の内容までは知ることは出来なかったが、2人の表情から何か深刻な事態が発生したことだけは、8歳の少女Cにも伝わってきた。
班長さんが帰ると、慌てた様子で部屋に戻ってきた母は少女を含めた、幼い3兄弟を起こして宣告した。
「今すぐ、(朝鮮)半島に帰る」
その時、父は不在だった。一家は、間もなくソウルに越す予定にしていたのだが、父親は引っ越し先の家を探すためにソウルに出かけていたのだ。母親は服や家財道具などには目もくれず、現金と持ち運びのできる貴重品だけをカバンに詰め、幼い3兄弟を連れて新京駅に向かった。
満州鉄道新京駅 photo by gettyimages
暗がりの中の新京駅は既にパニック状態だった。列車に載せてくれとわめきたてる数百の人々と、急に集まって来た人々を統制しようと叫び続ける駅員たち。おそらく、そこに集まって来た人たちはみな、母と同じ「噂」を聞いた人たちだったのだろう。
列車に載せてくれとわめきたてる人々を駅員たちは必死で制止していた。座席数には限りがあり、それらはもう全て埋まってしまっていたからだ。
しかし、少女Cはそこで母の強さを目撃する。危篤状態の夫に会いに行かなければならないのだと、万が一、夫の臨終に間に合わなかったら、責任を取ってくれるのかとまくしたてた。少女Cは普段は見たこともないような母の姿を驚きをもって見つめていた。母には少女Cにはまだ想像することすらできなかった「恐怖」が見えていたに違いない。

雨の中の貨物列車

あまりにも多くの人たちの声に、駅員たちが譲歩するしかなかった。だが、そこには「これでもよければ……」という条件があった。
客車はすでに満員で、乗車の許可が下りたのは屋根の付いていない貨物車だったのだ。石炭を運ぶための貨物車。平素であればありえない選択だが、パニック状態に陥った群衆を抑えることはもはや不可能で、苦肉の策として下された決断だったのだろう。駅員たちも、一刻を争う非常事態なのだということを知っていたに違いない。
こうして、少女Cが辛うじて乗りこんだ汽車は真夜中に新京駅を出発した。貨物車に乗った人たちの多くは朝鮮人だった。床には石炭が残っていた。出発後何時間かが過ぎたころ、雨がザァザァと降り始めた。天井のない貨物車の床には真っ黒な水が溜まった。そこにいた人たち皆の服が、黒く染まっていった。
けれどもそれよりも耐え難かったのが寒さだ。8月とはいえ、満州の夜の空気は冷たい。家族ごとで雨に濡れ冷え切った体を寄せ合い、抱き合うようにして寒さと戦った。客車に乗っていたのは日本人だ。全部ではないにしろ、大部分が日本人だった。雨の中で震えていた少女Cは、その時、日本人を心底羨ましく思ったという。

汽車は進んでは停まり、また進んでは停まりを繰り返しながら、それでも走り続けた。ダイヤは完全に乱れていた。とにかく、予定通りには進まなかった。自分はまだ幼かったし、どの駅に停車したのか、どこで乗り換えたのか、詳しいことは覚えていないと語った彼女が、これだけははっきり記憶していると話してくれたのは15日の午前に到着した「安東(現・丹東)」駅での出来事だ。
安東市は現在の中国遼寧省南部に位置する都市で、北朝鮮との国境に隣接している。つまり安東駅は、満州から半島に入る「玄関口」のようなものだ。
乗り切れないほどの乗客が殺到する満州鉄道 photo by gettyimages
少女Cがこの駅名まではっきりと記憶していたのは、この駅に汽車が停止した時、トイレに行くと言って1人貨物車から降りた弟が出発時間が近づいても戻って来ず、汽車の中で待つ家族がパニック状態に陥ったからだ。母と兄、少女Cも貨物車から降りて、あちこち探しまわったが、弟の姿は見えない。
それで母が駅員室に行き、呼び出し放送をしてもらうように頼んだ。ところが、駅員は大声を出して母を追い返したのだ。「少ししたら天皇陛下の放送が始まるというのに、そんな放送をしているときじゃない」。
仕方なく貨物車の前に戻ってきた家族の前に、弟が汽車の下から飛び出してきた。いつもと変わらない悪戯っ子の表情で笑う弟に母親が雷を落としたのは当然のことだ。弟を探すために席を外している間に、家族が座っていた場所は他の人に占領されていた。何とか乗り込んだものの、隅の方に立ったまま行かなければならなくなり、安東駅で怒鳴られたばかりの弟は、もう一度、母に叱られることになった。

運命の分かれ道「新義州駅」

列車は南に向かって走り続けた。現在の北朝鮮に位置する新義州駅に向かって走る間、少女Cはそれまで見たことのない景色を目にしていた。それは、遠くで、生まれて初めて見る旗を振っている人々だ。
後になって分かったのは、その旗が太極旗、つまり現在の韓国が国旗として使用している旗だったということだ。新義州駅に向かって走る間は、汽車の中には何の変化もなかった。汽車の外の世界で起きていた大事件を汽車の中の人々はまだ誰も知らずにいたのだ。
しばらくして到着した新義州駅の雰囲気は明らかに何かがおかしかった。あちらこちらで大声をあげるひとたちや、状況が把握できずおびえる人たち。そして貨物車に居た朝鮮人が次々と降りてどこかへ行こうとしているのが見えた。幼い少女Cには彼らの行き先が分からなかった。彼らが向かったのは日本人が乗っている客車だ。
安東駅を出発した列車が新義州駅に向かう間に、玉音放送が流れたのだ。列車が新義州駅に到着し、その一報を聞いた朝鮮人が日本人に対し「実力行使」に出たのである。客車に集まった朝鮮人たちは日本人に向かい声をあげた。「列車から降りろ!」

一等国民から敗戦国民へ

戦争が終わったという事実が何を意味するのか、幼い少女Cには分からなかった。ただ、朝鮮人の大人たちが喜ぶ姿を見て、良いことが起きたのだと、うっすらと感じていただけだ。だが、それは全ての人々にとって喜ばしいことではなかった。特に、日本人にとっては。
貨物車にいた朝鮮人、そして駅の周辺にいた朝鮮人たちが客車の日本人に詰め寄った。「降りろ。ここからは、ここに朝鮮人が座る」。高圧的に迫る朝鮮人を前に、日本人は抵抗することも出来ず、ただ大人しく客車から降りていった。安東駅を出たときには確かに存在していた秩序はもうどこにもなかった。駅員たちももはやなすすべを持たず、混乱が行き過ぎるのを眺めていた。
日本人を強制的に下車させた朝鮮人たちは貨物車にいた朝鮮人に「さあ、あなた方が客車に乗ってください。大変だったでしょう」といって客車へ移動するように勧めた。彼らはそれを、同じ民族に対する「配慮」だと考えていたのだろう。
こうして客車に移動することになった少女Cとその家族は落ち着いて座ることのできる座席を確保した。そこは雨に濡れ、一晩中震えていた貨物車に比べれば、ひどく贅沢な空間であった。
このとき、座席に座った少女Cが目にしたもの。それは、座席の上の棚に残された荷物だった。日本人が置いたものだ。ここに座っていた日本人の多くは、手荷物も持ち出す時間さえも与えられずに追い出されたのだ。
しばらくして、列車が再び動き出した。少女Cが目にした窓の外の光景は、棚の上の荷物よりも衝撃的だった。鉄道に沿って南に向かい歩き続ける数百人の日本人の列。ほんの少し前まで、今自分たちのいる座席に座っていた人たちかもしれない。客車から追い出された人々だ。
1945年8月15日、グアム島玉音放送を聴く日本兵 photo by gettyimages
大部分が母親と子供、そして老人だった。若い男性は見当たらなかった。子供たちの父親は、自分の妻と子供たちを、先に安全な場所に避難させようと送り出したのだろう。家族がこのような運命に合うとは想像すらできなかったに違いない。
自分と同じ年頃の子供たちも、8月の炎天下を、線路に沿って歩き続けていた。この光景は少女Cの脳裏に強烈に焼き付けられた。数十年経った今なお鮮明に思い出されるやるせない光景として。
少女Cの母親の実家は、新義州から遠くない定州というところにあった。ようやく、母の実家にたどり着いた。石炭で真っ黒色に染まった服を着て、ほとんど手ぶらの状態でやってきた家族を見たときの祖母のひどく驚いた顔。それでも無事に戻ってきたことを喜んでくれた。
こうして数日が経った時、ソウルに行っていた父が家族を迎えにやってきた。

終戦後少女Cの経験した混乱、そして回想

その後、少女Cは父に連れられてソウルでの生活を開始する。ソウル学校生活は満州でのそれと同じではなかったという。当時、少女Cは韓国語が十分に話せなかったためだ。父も母も朝鮮半島の出身ではあったけれども、満州では家の中でもほぼ日本語を使って生活していた。
少女Cの母は半島の最も北側の出身で、父は半島の南側出身だったことがその理由だ。お互いに方言が強く、同じ韓国語とはいっても、それだけでは意思疎通ができず、日本語が「共通語」として使われていたのだ。実際、結婚前に父が母の実家に挨拶をしに行ったときにも、父と母の両親が話すためには母が方言と日本語の間で通訳をしなければならなかったという。
ソウルでの学校生活の中でも、少女Cの口からは無意識のうちに日本語が出てしまうことがあったという。そのたびに、教室の中で冷たい視線を浴びることになった。それは、幼い少女にとって大きな負担になった。そうしているうちに、少女Cは話すことが怖くなり、性格もだんだんと内向的になってしまったと回想している。今の日本に例えるなら、片言の日本語しかしゃべれない帰国子女が日本の学校で感じるかもしれない不安に似た状態だったのだろう。
その後、朝鮮戦争が勃発。避難生活と混乱の日常を過ごす間、少女Cが満州での生活を思い出すことはなかったという。生きるか死ぬかの戦禍の中では、目の前の1日を生きることで精一杯だったからだ。
現在のソウル市内の高層マンション群。photo by gettyimages
そして、彼女がその時代を思い起こすことになったのは、1950年代後半の学生時代だったという。日本人の壮絶な引き上げの体験を素材にした小説『流れる星は生きている』(著者:藤原てい)が韓国語に翻訳出版され、話題となったのだが、これを読んで新義州駅で降ろされて南方に向かって歩いていた日本人たちの姿が鮮明に浮かんできたのだ。
少女Cはこの本を読みながら「あの時歩いていた人たちは無事に日本までたどり着けただろうか?」、「途中で酷い目に遭ったりはしなかっただろうか?」という思いが頭から離れなかったという。その思いは70年のときを経た今も完全に忘れることはできない、と。幼かった自分はただの「傍観者」以上の何者かになれるはずもなかったけれども、憐憫の情とともに、心のどこかに表現し難い痛みが、今も残っている、と。
大人になった少女Cは、ソウルで結婚し、子供を産み、主婦として何十年もの時間を過ごし、今はソウル近郊のマンションで夫とともに穏やかな老後生活を送っている、ごくごく普通のおばあさんだ。今年80歳を迎えた少女C、私の叔母の昔話である。