消えゆく個人投資家 株式市場はステルス化

http://www.nikkei.com/money/column/teiryu.aspx?g=DGXNMSFK0600Y_06052011000000&df=1

 「また誤発注なのか…」。3月下旬、東京都在住のあるベテラン個人投資家(60)は株価を映すモニターを見ながら苦々しげにつぶやいた。
 注目したのは保有している電通株の値動き。前場寄り付きに前日比9%安と急落、その数分後、今度は大量の買い戻しが入り、株価は前日終値近辺まで一気に戻した。
■“犯人”はアルゴリズム取引
 「この1年ほど、市場ではこうしたわけの分からない値動きがしょっちゅう起きる。振り回される我々には迷惑千万だ」。その個人投資家はうんざりした表情で語る。
 わずか数分のうちに株価が急騰・急落する現象を「スパイク」という。そのスパイクが東京市場で頻繁に見られるようになったのは、東京証券取引所が高速・大量処理の株式売買システム「arrowhead(アローヘッド)」を稼働させた2010年1月以降のこと。そして、スパイクを引き起こしている“犯人”は、コンピューターのプログラムが自動的に売買する「アルゴリズム取引」というのが市場の定説だ。
 アローヘッドは注文の処理速度を従来の1000倍に縮めるとともに、株数の処理能力も大幅に高めたシステム。2004年ごろから世界の市場ではやり始めたアルゴリズム取引に対応し、海外マネーを東証に呼び込むのが大きな狙いだった。もくろみ通りにアローヘッドの稼働後、海外ヘッジファンドなどアルゴリズム取引を駆使するマネーは大量に東証に流れ込んだ。
 なぜアルゴリズム取引が株価の急騰・急落をもたらすのか。野村総合研究所加藤大輝・投資情報サービス事業部主任コンサルタントは「コンピューター取引といってもプログラムを作るのは人間。プログラムのバグ(不具合)が誤発注につながっている」と話す。
 「わけが分からない値動き」は誤発注ばかりが原因とはいえない。多くのヘッジファンドなどが採用するアルゴリズム取引は、短時間に大量の売り買いを繰り返し、小さな利ざやを積み重ねていくスプレッド取引が主流という。東証のアローヘッドのような高速・大量処理の売買システムが可能にする手法で、プログラムは過去の株価の動きやリアルタイムの板情報(売買の注文状況)などのデータを判断材料に注文を出す。企業業績などのファンダメンタルズは無視されることが多く、だから、なぜある銘柄が買われるのか、売られているのか、一見すると「理由のつかない売買」と受け止められる。ある証券会社のベテランディーラーは「まるでレーダーで捕捉できないステルス機と戦っているようだ」と嘆く。

 ヘッジファンド業界に詳しい草野豊己・草野グローバルフロンティア代表は、こうしたアルゴリズム取引を一段と勢いづかせたのが「取引所のコロケーションのサービスだ」と指摘する。
情報格差生む優遇策
 コロケーションとは、取引所のシステムセンターに証券会社がサーバーを設置することを認め、取引所の株式売買システムとダイレクトに接続できるようにするサービス。ヘッジファンドなどは取引所のセンターに置かれた証券会社のサーバーにプログラムを組み込み、サヤ抜きなどのアルゴリズム取引を実行する。従来、海外ヘッジファンドのコンピューターが取引所の板情報などを読み込み、注文を出すまでかかる時間は数10ミリ秒(ミリ秒は1000分の1秒)単位だったのが、サーバー間の物理的な距離を短くしたこのサービスで1ミリ秒単位に縮まったという。東証はアローヘッドの稼働に併せて現物株式を対象にしたこのサービスの提供を始め、今では機関投資家や海外投資家を主要顧客とする国内外の主要証券が利用している。
 市場には、このコロケーションについて「あからさまな大口投資家の優遇策」という声がある。市場情報をいち早く入手して売買注文につなげるサービス利用者と、同じように板情報を重視してきた中小証券のディーラーやデイトレーダーなどの間に、歴然とした情報格差が生まれるからだ。草野氏は「今の市場で個人投資家ヘッジファンドなどに対抗するのはもはや不可能だ」と言い切る。
 投資家間に情報格差をもたらすことを承知の上で、東証が高速の売買システムやコロケーションサービスの導入を急いだのは、市場間競争に勝ち残るため。それは、ヘッジファンド機関投資家などの大口投資家を優遇するビジネスモデルに、市場運営のかじを切ったことを意味する。個人投資家の影響力が強い韓国では、個人の抵抗が強くいまだに取引所は同サービスの導入に踏み切れないといわれる。
■「市場の動きが説明できない」
 現在、東証ではコロケーションサービスを経由した現物株式の売買シェアは全体の3割以上を占め、その多くがヘッジファンドなどによるアルゴリズム取引だと見られる。海外マネーを呼び込み、市場の流動性を増大するという東証の狙いは着々と成果を上げている。しかし、その結果として、アルゴリズム取引を駆使する投機マネーが市場を席巻し、「わけの分からない」売買や株価の乱高下が横行するようになった。
 ある銀行系証券のストラテジストは「今では日々の市場の動きをきちんと説明できる人間は誰もいない」と話す。
 過去20年間、年率5%の相場下落を続けてきた日本の株式市場では、割安株投資家など長期の資産運用をめざす資金が大きな傷手を受けてきた。そして、高速売買システムの導入を機に、デイトレーダーなど短期売買の資金も撤退が目立ち始めた。果たして、「何が起きているか分からない市場」に今後も個人投資家は大切なお金を投じようとするだろうか。
 日本の株式市場はすでに、外国人の売買シェアが7割近くに達するいびつなマーケットになっている。「価値観の多様性や投資家層の厚みを失った市場はいずれ衰退していく」(野村総研の加藤氏)。マーケットの「ステルス化」は、誰がこの国の株式市場を支えていくのかという問題を投げかけている。