感染症研究が切り開いた睡眠科学
感染症研究が切り開いた睡眠科学
テーマを決めておおむね下書きが出来たところで、2015年のノーベル生理学・医学賞を北里大学の大村智特別栄誉教授が受賞したという吉報が飛び込んだ。日本人として誇らしいのと同時に、受賞理由が感染症、しかも寄生虫病の治療薬の開発というある意味「地味な」分野であったことに良い意味で驚いた。
最近の生理学・医学賞は分子生物学の先端技術を用いた華々しい研究に与えられることが多い。最先端の施設や多くのスタッフを必要とするビッグサイエンスが幅をきかせている。これは物理学賞や化学賞も似たような状況だと思う。それだけにこつこつと地道な努力を続け、静岡県「伊東市川奈のゴルフ場の土」にいた菌から寄生虫病の画期的な治療薬を発見したなどという家内工業的な研究のサクセスストーリーにある種のロマンというか爽快感を覚えるのは私だけではないだろう。
さて、プレス発表などを読むと、大村博士の最大の功績は殺虫作用のあるアベルメクチンの発見と、その誘導体であり寄生虫の治療薬(抗寄生虫薬)として広く用いられているイベルメクチンの開発ということだ。これらの薬剤は当初家畜の抗寄生虫薬として使用されていたが、その後、ヒトの熱帯病にも効果があることが分かったという。
イベルメクチンが奏功する感染症としてオンコセルカ症(河川盲目症)、象皮病、疥癬(かいせん)などが挙げられる。オンコセルカ症は回旋糸状虫という寄生虫がブユ(ブヨ)を介して人に感染して発症する。主として皮膚に感染するが寄生虫が眼に達すると失明することもある。象皮病はフィラリアという寄生虫がリンパ節やリンパ管の炎症を引き起こす病気だ。強いむくみが特徴だが、進行すると皮膚の組織が増殖して象のような硬い皮膚になることから命名された。
私もこの2つの寄生虫病は教科書でしか見たことがないが、疥癬は今でも病院内などで発生することがある。ダニが原因で起こる酷い痒みを伴う感染症で、私自身も担当患者の治療に追われた経験がある。「ん? イベルメクチンが疥癬にも効く?」 この原稿を書いていてふと気づき、慌ててそのときに使用した薬剤(商品名)を調べてみたら、なんと化学名がイベルメクチンであった!お恥ずかしい限りだが、自分の専門外だと治療薬の商品名を知っていても化学名を知らないことがある。私自身も知らぬ間にノーベル賞受賞研究の恩恵を受けていたのであった。
トップバッターはアフリカ睡眠病である。有名なツェツェバエを介してトリパノソーマという寄生虫が人に感染して発症する。現在でも年間5万人以上が感染し、うち3万人が死亡している。最も強力な治療薬はヒ素だが副作用のために死亡する危険性が高い。ほかに特効薬もなく今でも治療薬の開発が続けられている。
アフリカ睡眠病の感染初期は発熱や頭痛など一般的な感染症症状がみられるが、徐々に睡眠・覚醒リズムが乱れるようになり、進行すると嗜眠(しみん:もうろうとして眠り続ける状態)に陥るのが特徴で、そのまま名前の由来にもなっている。トリパノソーマが睡眠病を引き起こす原因は現在でも完全には解明されていないが、どうやらこの寄生虫は自ら催眠物質を作り出す、もしくは人体に産生させるらしい。
余談になるが、シマウマのシマ模様はツェツェバエを寄せ付けないために進化の過程で獲得したと主張する研究者もいる。ツェツェバエは縞模様を嫌うという研究報告もある。トリパノソーマは人獣共通して感染する寄生虫でウマにとっても脅威なのだが、アフリカに生息する他のウマ科動物に比べて、シマウマはアフリカ睡眠病にかかりにくいことが知られている。
さらに重篤な感染性睡眠病がある。その名も「致死性家族性不眠症」。名前の通り、いったん発症したら半年から数年で100%死亡する恐ろしい感染性睡眠病である。ダニエル・T・マックスの『眠れない一族―食人の痕跡と殺人タンパクの謎』(柴田裕之訳、紀伊國屋書店)でご存じの方もおられるかもしれない。
致死性家族性不眠症はプリオン蛋白を作る遺伝子に変異が生じ、異常プリオン蛋白が脳内に蓄積して神経の変性を引き起こす「遺伝病」である。これまでに世界で数十家系、日本でも数家系が報告されている。ただし、異常プリオンは正常プリオンを異常型に変換してしまうため、プリオン遺伝子異常を持たない人にも感染する可能性がある。詳細は割愛するが感染メカニズムが通常の細菌やウイルスと異なるため、感染性ではなく「伝達性」と呼ぶべきだという研究者もいる。
1900年代初頭、ちょうど第一次世界大戦の頃に主にヨーロッパと北米で大流行した脳炎である。原因となる病原体は実はまだ見つかっていないが、おそらくウイルス性だと考えられている。感染するとこんこんと眠り続け、強く刺激を与えるといったん目を覚ますこともあるが、また眠り込んでしまうことからこの名称が付いた。しかし不思議なことに、患者の中には逆にひどい不眠に陥る者もいた。
このような特徴を見逃さなかったのが、流行の震源地ウィーンの神経病理学者であったコンスタンチン・フォン・エコノモ医師であった。エコノモは死亡した患者の脳を解剖して特徴的な病変がないか詳細に調べ上げた。その結果、嗜眠に陥った患者では視床下部の後部を中心に炎症性病変が広がっていることを見いだしたのだ。逆に、不眠に陥った患者では視床下部の前部に病変が広がっていた。まだ人の睡眠や覚醒の神経メカニズムが全く不明であった1920年代後半のことである。
左図はエコノモ医師が発見した嗜眠と不眠の原因となる嗜眠性脳炎の病変部位(エコノモ医師の1929年の論文から引用)。右図は現在明らかになっている睡眠覚醒システムの一部。嗜眠性脳炎の病変部位に関連した神経路から主要なものだけを抜粋した。
赤い丸で示した結節乳頭核や脳幹部の多数の覚醒系神経核から出たシグナルは嗜眠患者でみられた病変部位を通過して大脳に向かうことが後年明らかになった(患者では遮断されていた)。また、結節乳頭核の働きを抑え込んで眠気をもたらす「腹側外側視索前野」とその神経投射(青)は不眠の病変部位に含まれていた。
脳科学好きの方にもう少しだけ詳しく説明しよう。図を見てほしい。エコノモの発見から30年後の1950年頃に、現在では「上行性網様体賦活系」として知られる覚醒システムがまさにエコノモが指摘した嗜眠病変を通過して大脳に向かっていることが明らかになった。また、1970年代になってようやく睡眠と覚醒に関わるさまざまな神経伝達物質とその神経回路が徐々に明らかになってきた。その結果、主要な覚醒系神経核である結節乳頭核の働きを抑え込んで眠気をもたらす睡眠中枢(腹側外側視索前野)が不眠病変に存在していたのである。
睡眠覚醒調節に関する詳細な神経メカニズムが解明されたのは2000年代に入ってからである。それに先立つこと70年以上も前にエコノモが行った嗜眠性脳炎の研究はその後の睡眠科学を牽引する金字塔的な業績であった。感染性睡眠病の研究が睡眠科学を切り開いた好例として知られている。
三島和夫(みしま・かずお)
1963年、秋田県生まれ。医学博士。国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所精神生理研究部部長。1987年、秋田大学医学部医学科卒業。同大精神科学講座講師、同助教授、2002年米国バージニア大学時間生物学研究センター研究員、米国スタンフォード大学医学部睡眠研究センター客員准教授を経て、2006年6月より現職。日本睡眠学会理事、日本時間生物学会理事、日本生物学的精神医学会評議員、JAXAの宇宙医学研究シナリオワーキンググループ委員なども務めている。これまで睡眠薬の臨床試験ガイドライン、同適正使用と休薬ガイドライン、睡眠障害の病態研究などに関する厚生労働省研究班の主任研究者を歴任。『8時間睡眠のウソ。日本人の眠り、8つの新常識』(川端裕人氏と共著、日経BP社)、『睡眠薬の適正使用・休薬ガイドライン』(編著、じほう)などの著書がある。