アウン・サン・スーチー女史の来日に思う

アウン・サン・スーチー女史の来日に思う


平成28年11月6日(日)
 ミャンマーの「実質的国家指導者」である
 アウン・サン・スーチー女史が来日している。 
 もっとも、来日した彼女は、
 自国を「ミャンマー」と言わず「ビルマ」と呼んでいるが。
 その訳は、
 ミャンマーは、いわゆる軍事政権時代の国名で、
 私は、認めたくないということだろう。
 日本では、「ビルマの竪琴」という実話的小説が広く日本国民に読まれたから、
 日本に来て自国をビルマと読んでいるのではあるまい。
 そして、彼女は、学んだことのある京都大学を訪れ、
 日本との縁の深さと絆を示し、
 日本とビルマミャンマー)の経済交流の発展強化を求めた。
 つまり、日本からの経済援助と協力を求めた。

 だが、彼女が、
 本当にビルマ独立の英雄、アウンサン将軍の娘なら、
 京都大学と自分との繋がりだけではなく、
 イギリスからの独立のためにイギリス軍と戦った父
 アウンサン将軍が
 ビルマ独立の志士達と共に日本軍によって軍事訓練を受け、
 日本軍と共にイギリス軍と戦ってビルマ独立を勝ち取ったことを語り、
 その父アウンサンの娘が、
 父が目指した独立国ビルマを代表して日本を訪れたことの縁(えにし)を
 仏教国の代表らしく語るべきだと思う。
 何故なら、
 彼女が、今、ビルマの実質的代表の地位にあるのは、
 ビルマの国家と民衆が、
 イギリスからの独立の英雄アウンサン将軍を崇敬し、
 彼女が、その偉大なアウンサン将軍の娘であるからである。
 この点、残念である。
 やはり、彼女は、かつてミャンマーの知人が私に言ったように、
 ビルマ人ではなく、イギリス人のマインドを持っているのであろうか。
 そうであれば、イギリスのマインドからは、
 イギリスの宿敵である父アウンサンを通じて繋がる、
 ビルマと日本の縁は眼中に入らない。

 そこで、私が知っているミャンマーを支えていた人々のことを思い出し、
 彼らのことを記しておきたいと思う。
 彼らは、皆、敬仰するアウンサン将軍と日本とビルマの縁を
 心の中に深くたたえて私に接してくれた。従って、このことは、
 戦後の我々が観ていなかった我が国自信の歴史を取り戻すことにもなる。
 以下、思い出すままに記しておきたい。

 十九世紀にビルマを植民地にしたイギリスが、最初にしたことは、
 ビルマ皇室の解体である。
 その為に、イギリスは、ビルマ皇室の淑女達を、イギリス軍将校の妾にして
 生まれた子をインドのイギリス人学校の寄宿舎に送って育て、
 ビルマの顔を持ってイギリスのマインドを持つ上流階級を造った。
 アウン・サン・スーチー女史は、
 イギリスで教育を受けて育ち、
 イギリス人と結婚してイギリス人の子供を産み、イギリスに家をもった。
 そして、軍事政権のビルマに帰って、
 ただ、ひたすら自由と民主化を要求した。
 
 彼女は、アウンサン将軍の娘であるから、ビルマでは、
 首都ヤンゴンの中心部の広大なアウンサン将軍の邸宅に住むのが当然と思っていた。
 また、軍事政権も、彼女がアウンサン将軍の娘であるから
 アウンサン将軍の邸宅に住むのが当然だと思っていた。
 全ては、アウンサン将軍のお陰である。
 
 では、何故、ビルマは軍事政権だったのであろうか。
 その訳は、イギリスの植民地支配に由来する。
 イギリスは、
 お得意の巧妙な分割統治の手法でビルマを支配した。
 即ち、イギリスは、少数民族ビルマ支配の特権を与え、
 大多数のビルマ族の人々を支配させた。
 被支配者となった大多数のビルマの人々は、
 農業に使う鎌の刃の寸法まで武器として使えなくするために短く限定され抑圧された。
  従って、日本軍とアウンサン将軍らの戦いによって独立したビルマは、
 当然、植民地時代にイギリスから与えられた少数民族の特権を剥奪することになる。
 そこで、独立ビルマは、
 当初より、イギリスによって、
 特権を剥奪された少数民族の反乱という内乱を抱える宿命を負わされた。
 その内乱を収拾して独立と治安を回復する力を持つのは
 アウンサン将軍と日本軍が養成した軍隊だけであった。
 従って、ビルマは軍事政権の時代に入っていた。

 その軍事政権の時代の平成五年、
 私が始めてミャンマーを訪れた時、
 ミャンマーは、世界の最貧国であった。
 従って、ミャンマー政府首脳は、
 今のスーチー女史のように
 日本からの援助を求めた。
 しかし、スーチー女史は、その援助をことごとく非難し、
 イギリスを中心とする自由と民主主義を掲げる自由主義諸国も同調して、
 日本はミャンマーへの援助を停止した。
 
 とはいえ日本は、
 人道的な援助である小児麻痺を予防する乳幼児に対する
 ポリオ生ワクチン投与の援助を実施し続けた。
 ところが、スーチー女史は、
 ヤンゴンのアウンサン将軍の邸宅から、
 その日本の援助を非難し続けていた。
 そこで私は、
 日本からのポリオ生ワクチンが接種されている郊外の
 決して裕福ではない村の集会所を訪れた。
 そこには、
 大勢の若いお母さんたちが乳児を抱っこして、
 ニコニコ笑ってワクチンの接種を受けていた。
 皆、幸せそうだった。
 その笑顔を眺めていて、
 何故、スーチー女史が、
 この日本のワクチン接種まで非難するのか理解不能だった。
 
 後で聞けば、スーチー女史が知っているビルマは、
 ヤンゴンとアウンサン将軍の邸宅だけで、
 その外の広大なビルマには行ったこともないし
 民衆のことは知らないということだった。
 また、スーチー女史は、ノーベル平和賞を受賞した。
 その賞金は、イギリスで邸宅を買うためにイギリスに送られたとも聞いた。

 その頃、軍事政権の実質的リーダーであったキン・ミュン第一書記に会った。
 彼は私に最初に言った。
 日本はミャンマー独立の恩人である。感謝している。
 
 またスーチー女史について言った。
 アウンサン将軍は、我々の父親だ。
 そして彼女は、アウンサン将軍の娘だ。
 従って、我々は、スーチーを我々の妹のように丁寧に接している。
 
 しかし、キン・ニュン第一書記は言わなかったが、
 明らかに、
 彼女がイギリスで育ちイギリスに家族があり家を持っているのを意識していた。
 彼らから自由を奪って現在の内乱を原因を残していったイギリスが、
 今度は、スーチー女史を通じて自由と民主主義を掲げて
 彼ら軍事政権を非難しているように思えていたのではないか。
 丁度、イギリスの植民地開始時に、
 イギリスがビルマの上流階級の娘をイギリス人と結婚させて
 イギリス人のマインドを保ったビルマ人を造って上流階級に送り込んだように、
 またもイギリスは、
 イギリスのマインドを持ったスーチー女史を送り込んできたのではないかと思えていたのではいないか。
 
 キン・ニュン第一書記は言った。
 ミャンマー民主化を要求して援助を国際連携して止めている西側諸国、
 特に、イギリスは、
 「第二植民地主義者」である、と。
 
 そして、援助が停止されて困窮している中で内乱を抱え苦しんでいるミャンマー
 を率いるキン・ニュン第一書記は、
 静かに次のように言った。
 
 我々四千五百万人のミャンマー国民は、
 皆、このミャンマーの大地に生まれ、
 そして、この大地の中で死ぬ。
 しかし、彼女は、アウンサン将軍の娘だけれども、
 イギリスに家がありイギリスに戻る人だ。

 私は、このキン・ニュン第一書記と親しくなった。
 最初に会ったとき、私は、次のように言った。
 このミャンマーの大地で、数十万の日本軍将兵が斃れミャンマーの土に還った。
 その日本軍将兵を貴国は丁寧に弔ってくれている。
 日本人として、心より感謝する。
 
 その時、キン・ニュン第一書記陸軍中将の中で
 我が国の大東亜戦争とアウンサン将軍の独立戦争が重なった。
 そして、彼は側近に聞いた。
 シンゴは軍人か、と。
 
 彼の部下である中佐が私に言った。
 日本の自衛隊と我らが白兵戦をすれば、必ず、我らが勝つ。
 何故だ。
 我らは、日本軍から銃剣道を習って、それを今も受け継いでいるからだ。

 軍事政権の末期に、キン・ニュン第一書記は失脚する。
 そして、数年の自宅軟禁の生活に入る。
 その失脚の前に彼と会ったとき、
 第一書記は、実に名残惜しそうに言った。
 シンゴ、今度来るとき、私が国境地帯をヘリで案内する。
 これが彼との最後の面会だった。

 軟禁生活が解けた後、キン・ニュン元第一書記と会った寺井融氏は、
 私に、キン・ニュンさんもシンゴさんを懐かしがっていた、と伝えてくれた。
 寺井氏は、私のほぼ全てのミャンマー訪問に同行した同志である。

 以上、ミャンマーが最も苦しいときに、
 日本の援助を非難し、
 国際社会と協調して諸国からの援助を停止させ、
 その功績により、ノーベル平和賞を受賞した
 アウン・サン・スーチー女史が来日して、
 我が国に経済協力を要請する光景を眺めて、
 その最も苦しいときのミャンマーを支えていた親しくなった人々を思い起こした。
 彼らのことは忘れられない。

 とはいえ、
 アウン・サン・スーチーさんも、
 やっと、ビルマの状況を理解して、国家運営に責任を感じ、
 援助を要請する統治能力を身につけたということだ。