春眠暁を覚えず、は本当か

春眠暁を覚えず、は本当か

日経ナショナル ジオグラフィック社


 睡眠に関する季節ネタはいろいろあるが、春先になると取材などで決まって質問されるのが「春眠暁を覚えず」のメカニズムを教えて欲しいというものだ。

 この言葉は、中国唐代の詩人孟浩然(もうこうねん)の五言絶句「春暁」に由来している。
春眠(しゅんみん)暁(あかつき)を覚(おぼ)えず
処処(しょしょ)啼鳥(ていちょう)を聞(き)く
夜来(やらい)風雨(ふうう)の声(こえ)
花(はな)落(お)つること知(し)る多少(たしょう)
春の眠りは心地よくて、夜明けに気づかぬまま寝過ごしてしまった
あちらこちらから鳥のさえずりが聞こえてくる
昨夜は雨風が強かったが、
庭の花々はどれほど散ってしまっただろうか

 確かに春先は眠いな、寝心地がいいなと多くの人が同感したからこそこれほど有名になったのだろう。ただ、この句にある「暁を覚えず」が「睡眠時間が長くなる」もしくは「眠気が強くなる」を意味しているかというと必ずしもそうではないと思う。

■睡眠時間が長くなる季節は「春」にあらず
 まず睡眠時間だが、確かに季節変動はある。ただし、「もっと光を! 冬の日照不足とうつの深~い関係」の回でも触れたように、睡眠時間が長くなるのは冬季である。冬の夜は長く寒いので寝床にいる時間も長くなるのだが、実質的な睡眠時間も長くなることが分かっている。

 また、日照不足から体内時計が夏よりも遅れがちとなり夜型に傾きやすい。特に北欧など高緯度地域では夏季に比べて冬季は1~2時間ほども生体リズムが遅れるため寝つきや起床に苦労する人が増える。これは「冬季不眠 winter insomnia」と呼ばれ、現地では体感的によく知られている国民病である。したがって春眠ならぬ「冬眠、暁を覚えず」の方がピッタリくる。



 では、日照や気温などの季節要因のために「春先に」眠気が強くなることがあるのか。残念ながらこの疑問についても科学的に実証したデータはない。実証されているのはやはり「冬季の」眠気である。もちろん、年度末の決算や異動、新年度の行事などで寝不足の人は、春の日差しも暖かい休日の朝にゆっくりと二度寝ができればさぞかし心地よいと思う。

 孟浩然は立身出世とは無縁の人であったらしいので、「寝不足ですっかり寝過ごしてしまったな」ではなく、「長い冬が終わり、鳥のさえずりで心地よく目覚める良い季節になったなぁ、こんな日に朝からあくせく出仕とはご苦労なことよ」くらいの心情を詠んだ句ではなかったろうか。
 いやいや、あれもこれも関係ないじゃ記事になりません、春先に眠気を感じる人は実際いるのだから可能性でもよいので何か一言を、と取材で粘られた時は、早く帰っていただくためにも個人の責任において「仮説」を紹介することにしている。

■暖房が入った部屋に入ると眠くなるのと似ている?
 そもそも「春眠暁を覚えず!」などと口走るのはたいがい居眠りが見つかって言い訳している場面と決まっている。あなたが昼食後の会議中に眠気を感じた時は手のひらや足裏などの末梢血管(毛細血管)が拡張して盛んに放熱していることが多い。これは眠気が脳温の低下と連動して強まるという特性による。手足から熱を逃がして脳や内臓などを冷却するシステムが働いているのである(「お風呂で快眠できるワケ」)。

 肌寒いうちは体を冷やさないように(熱が逃げないように)手足の末梢血管は絞まりがちだが、春になり気温が上がると血管は拡張しやすくなる。こうなると席の真向かいに部長が座っていようが、美人の部下が座っていようが、なかなか眠気に抗うことができない。見とがめられた後に照れくさく発するのが件の一句というわけだ。ちなみに冬でも暖房が入った部屋では同じような現象が生じ、季節外れの春眠を経験した人も少なくないはず。

 以上は私の仮説である。実際に春眠が放熱と連動しているか証明した研究はない。今後もそのような酔狂な研究をする人は出てきそうもない。ほかにも、気圧による自律神経機能の変化から春眠を論じている人などもいて諸説紛々だが、いずれもその真偽は分からない。心地よい春先にそのようなことをあれこれ詮索するのは無粋であると孟浩然に叱られそうなのでここら辺で止めておこう。

 ちなみに、体がほてって寝苦しい夜に足先を布団から出すと寝やすくなるのも、足裏から放熱しやすくなるためである。電気毛布を使っている方も、スイッチは就床後ほどなく切れるようにタイマーをセットしてはどうだろうか。冷たい布団に入ると末梢血管が収縮して放熱を妨げるので布団を暖めておくのは確かに良い。でも、付けっぱなしでは睡眠中の放熱をかえって妨げてしまうからだ。このアドバイスもすでに季節外れかな。

 今回の話をまとめると、春先に眠気が強くなるという現象が本当に存在するのか、存在するとすればそのメカニズムはどのようなものか、明らかになっていないと言うことだ。寝不足大国ニッポンにとって眠気は春先に限ったことでは無い。孟浩然が現代に生きたならば、

春夏秋冬 暁を覚えず
処処 あくびを聞く
 と詠んだはずだ。