南京日記1937年12月4-5日

南京日記1937年12月4-5日

  兵士達はSafety Zone内に新しい塹壕を掘り、軍専用電話機を設置する為に、車で出かけていく。再び何時間もの空襲に遭った。飛行場に用事があって出かけていたクレーガーは、危うく死ぬところだった。彼から100メートル程の前方に、多数の爆弾が落とされたのだった。

  難民達はそろそろ安全区に移り始めていた。小さな新聞には、支那人たちに何度も「異邦人」の難民区域に移動せぬよう呼び掛けていた。但し、とこの俗悪新聞は続ける、危険に進んで身を晒すという支那人の義務を果たす事においては、その限りではない。場合によっては町の中で銃撃戦が起きるやもしれぬ故。

12月5日
  気持ち良く晴れ渡った日曜日は、朝の8時から厄介事で始まった。運転手が私を置いてけぼりにしたのだ。まず彼を呼びにやり、それから怒鳴りつけ、運転手はグチグチ文句を言い、私はクビを言い渡す。彼は謝罪して再び職に戻る。これでもう25回目位だ、彼をクビにしてはまた雇うを繰り返すのは。

  やっと車に乗り込んだら、今度は警報だ。爆弾が降ってくるが、今は私は第2警報の後も走れる通行証を持っている。それにやる事が多過ぎて空襲など構ってはいられない。そう書くと勇ましく聞こえるが、爆弾は幸運にも他の場所に落っこちていたに過ぎない。

  米国大使館の仲介で、やっと東京からの安全区域に関する公的な返答を受け取った。返信はやや詳細にわたっているが、大元は数日前にジャキノー神父が伝送したものの内容に変わりはない。日本政府は安全区域を拒否はするが、出来る限り尊重するということだ。
 
 ベイツ博士とシュペアリンクと共に町防衛責任者、タン将軍を尋ねる。安全区域から軍関係者、設備の迅速なる全撤去を確約させる為だ。だが、タン将軍が我々に伝えた事を聞いた時の驚きを、誰が描写出来るだろう。すぐには無理、撤去には二週間かかると言うのだ!横っ面を張り飛ばされた気分だ!これで日本政府が提示した、支那軍人は安全区域に留まってはならないという条件は満たされない。

ということは、差し当たり「安全区域」とは呼べず、せいぜい「難民区域」が妥当だろう。長い会議の話し合いでこの問題について協議し、報道機関に提出する内容が決まった。報道機関はまだ全容を知らされるべきではない、我々の仕事を台無しにしたくなかったら…

  この間にも、爆弾はいくつも落ちた。爆撃の音があまりうるさくなると、我々は椅子ごと窓際から離れた。町の城門は悉く塞がれ、三つの城門が片門僅かに開いているに過ぎない。

  我々は、米と小麦粉を区域内に運搬するのに奔走中だ。境界線の旗や、外にいる気の毒な人民の為にこの区域に関する説明を記した掲示などを用意。この区域の安全性など全く保証はできぬが。

  ローゼン博士は支那軍に悪態をついている。ドイツ国旗の掲げてある空き家が外よりも安全と、我々の区域内に逃げ隠れている、と。宣誓はせぬが、それは本当だ。事実は、タン将軍が今日我々を迎え入れた家も、難民地区以内に位置しているということだ。

第2章了