南京日記1937年12月9日

南京日記1937年12月9日

  町の外からの米の運搬がまだ終わらない。トラック一台はその際に損傷してしまった。苦力の一人は眼を負傷し、病院に運ばれた。委員会が彼の世話をすることになる。残っていた米国人とローゼン博士はシャルフェンベルクやヒュルターと一緒にHulk船に乗船してしまったが、空が「希薄」ならば今晩の会議にはまた上陸するそうだ。
  他のトラックの運転手たちは爆撃に見舞われた南門から、泣き叫びながら戻ってきた。門番はトラックを通過させるのを拒否したが、何とか説き伏せることができた。しかしトラックが戻った時、門番たち ー 40人ほどいた ー は1人残らず死んでいた。

  午後2時、ベイツ博士、シュペアリンク、ミルス、Lungそれに参謀本部の大佐と共に、タン将軍が異議を申し立てたSafety Zone の境界線を点検(南西境界線)。丘の上からは、支那人達が軍事行動に必要な場所を確保するのに放火した郊外が、火と煙に包まれて横たわっているのが見えた。

町全体煙の帯に巻かれていた。我々は安全区域の南西境界線内に対空砲火の砲列を確認した。点検の間に日本軍機が三機現れ、我々の前方約10メートル離れた所に設えた砲列に、激しい攻撃を加えた。我々は皆咄嗟に伏せた。仰向けになって、対空砲火の動きを追ったが、残念なことに一発も当たらなかった。というか、幸いなことにいつも的から外れていた。いつ何時爆弾が我々の上に落ちるかとヒヤヒヤした。しかし、無事だった。

  参謀本部の大佐が境界線に関して全く妥協しないので、私は退任し、総統に宛てタン将軍の約定不履行により難民区設置が失敗に終わる旨を電報で報せるつもりだ、と脅した。大佐とLungは考え込みながら帰宅していった。その間にも、我々はチェスの駒を一つ、大きく進める決心をした。もっとも、私自身は効果があるとはそれほど思っていないが。我々はもう一度タン将軍に会い、町防衛放棄を要請するつもりだ。大変驚いたことに、彼はそれを了承した。蒋介石大元帥の許可を得ることを条件に。
 
編者注
  それで、ジョン・ラーベは2人の米国人と支那人達と共に米国砲艦「Panay号」に赴いた。彼らは電報を2通送信した。1通は漢口米国大使館を通し大元帥蒋介石宛て、もう1通は上海を通し日本軍官庁へ。電報を蒋介石に伝達する米国大使に宛てて、ジョン・ラーベは次のように書いている。国際委員会は、日本軍官庁が城壁に囲まれている南京市を攻撃せぬ、という確約を望む。

もしこの確約が為されるならば、委員会は支那官庁に対し、人道的見地から南京市城壁内での軍事行動を行わぬことを要請する次第である。委員会は南京近郊の全軍隊に対し、3日の休戦を提案する。支那軍が城壁内から撤収する間、日本軍は現在位置に留まる。電報は、委員会長ジョン・ラーベ、と署名されていた。

その後
  Panay号から燃え盛る下関の郊外を通る帰路は素晴らしかった。我々は夜7時の記者会見が終わる前には帰宅した。その間に、日本軍がもう南京城門に到達したか、しつつある報せを聞いた。南門Goan Hoa Menの方からは、大砲や機関銃の音が鳴り響いている。夜になり街灯が消灯した暗がりの中、通りに身体を引き摺る負傷者の姿が見えた。助ける者は誰もいない。もう医者も看護師も、衛生隊員もいない。

鼓楼病院の一握りの有能な米国人医師たちだけが持ち堪えている。安全区の通りは、荷物を山のように抱えた難民でごった返しだ。旧交通省(武器局)の建物は難民達に開放され、階下から天井まで人で溢れていた。我々は二部屋閉鎖した。そこに武器と弾薬が保管してあったから。難民の中には、軍服と武器を放棄した逃亡兵もいるのだ。