南京日記1937年12月11日

南京日記1937年12月11日

午前8時
  水と電気が止まった。銃撃はまだ止まない。騒がしい音が低くなったかと思うと、また新しく始まるのだった。うちの「ペーター」はそれが気に入ったようだ。声の限りを尽くして銃撃に合わせて歌うのだ。このカナリアは、どこかのラーベと違って度胸があるらしい!

   安全区の通りは人でいっぱいで、銃撃の音をあまり気にかけていない。安全区に対する信頼は私よりも強いようだ。区域は未だsafeではない。武装した兵士はまだ入り込んで来ており、追い出す努力は無駄に終わっていた。安全区が非武装地帯であると日本政府に報告するつもりだったが、それは叶わない。

午前9時
  安全区に最初の爆弾が落ちた。Foo Chongホテルの正面と後ろだ。12人が死亡し、12人ほどが怪我をした。ホテルを管理するシュペアリンクは、ガラスの破片で軽く怪我をした。ホテルの前に停めてあった車2台が全焼した。もう一弾安全区に撃ち込まれた爆弾は(中学校)、13人の命を奪った。

安全区から支那軍が退去しないと言う訴えが、続々とやってくる。鼓楼病院の正面 ー 安全区内 ー では、要塞か築かれつつあった。この任務を請け負った将官は、通りの反対側に築くのを拒否した。私はマギーと共に将官の所に赴き、話し合いで解決するつもりだ。

そこに行く途中、兵士達がShansi Road Circle (バイエルン広場)に塹壕を掘っているのに気付いた。広場の一角に鋭い角度で建っている建物は、兵士達にぶち破られていた。私は、彼らが窓や扉を打ち壊すのをこの目で見た。何故こんな事をする?誰にもわからない!

  Chung Shan Lou(通り)ではたくさんの負傷者が運ばれている。砂袋を積み上げたバリケードや引き倒された木、鉄条網などで防衛の準備が進められているが、戦車の前では一たまりもなかろう。我々は鼓楼病院前の将官と話したが、彼は丁寧だがきっぱりと我々の要請を拒否した。私は、鼓楼病院よりLungに電話をし、彼はタン将軍と連絡を取る約束をした。

午後6時
  6時の会議には、報道陣以外は委員会の会員だけが出席した。他の人達はJardine社のHulk船か米国の砲艦USS Panayに乗って川の上流に行ってしまった。

  スミス博士の報告。名目上今は我々に従属している警察が、「泥棒1名」を逮捕、その処遇を求めた。この事件は我々を大笑いさせた。そんな高度な裁判まで我々に求められているとは、今の今まで考慮していなかった。我々はその泥棒に死刑の判決を下し、留置所がない事を理由に、24時間拘留に減刑する事に決めた。その後は放免される。
 
 20時にハンを呼び、Ninhai Lou 5番地の安全区本部に家族と引っ越すことを勧めた。そこの防空壕は我々のよりしっかりしている。それに私の自宅は五台山の対空砲火隊に近過ぎる。日本軍が本気で狙っている場所だ。今晩日本軍の激しい攻撃に晒されるやもしれないので、私も引っ越した方がいいかもしれない。ハンはそれに反して引っ越しはしたくないようだ。

第3章了