“素人”裁判 国防が「殺人罪」 一般法廷 軍事的知識なく…「これでは戦えない」

憲法76条の壁・軍法会議なき自衛隊(上)】
“素人”裁判 国防が「殺人罪」 一般法廷 軍事的知識なく…「これでは戦えない」


イラク人道復興支援活動に参加した自衛隊員にとっても、不安の種の1つは軍法会議の不在だった(頼光和弘撮影)

 「おまえはバカか! 撃たれるぞ!」
 イラク人道復興支援活動への派遣を間近に控え、陸上自衛隊部隊の指揮を執った1等陸佐の佐藤正久(現外務副大臣)は、北海道大演習場(千歳市など)で怒声を飛ばした。武装勢力に銃撃されて応戦するとの想定にもかかわらず、脇目もふらずに映像を撮り続ける隊員を見とがめたのだ。
 平成16年1月から陸自部隊を派遣したイラクについて、当時首相の小泉純一郎らは「非戦闘地域」と説明したが、隊員が戦闘に巻き込まれるリスクは従来の国連平和維持活動(PKO)とは比べものにならない。隊員がビデオカメラを回し続けたのは、殺傷が発生した場合に正当性を証明するためだった。
 佐藤は「自衛隊は何とか証拠を残すことにこだわる。ほかの国はこだわらない。軍法会議があるし、そんなことしていたら殺(や)られてしまうからだ」と振り返る。海外に派遣された自衛隊が戦闘員を含めて殺傷した例はないが、これも「一発を撃たないために、他国より厳しい武器使用基準を採用している」からだ。
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 自衛官は有事となれば、命令に従い戦闘行為に従事する。国内法や戦時国際法で定められた要件を満たしていれば、敵国兵士を殺傷しても殺人罪や傷害罪に問われることはない。

 しかし、要件を満たしていなければ罪に問われることになり、現行制度では一般裁判所の裁判官が判断することになる。「軍事の素人にちゃんと判断できるのか。これでは怖くて戦うことができない」。ある航空自衛隊幹部はこう打ち明ける。
 現実に目を向ければ、核・ミサイル開発を進める北朝鮮をめぐり、緊迫した情勢が続いている。トランプ米政権は軍事的選択肢を排除しておらず、朝鮮半島有事が発生する可能性は否定できない。
 仮に米軍と北朝鮮が戦火を交えれば、北朝鮮からボートピープルが日本に押し寄せる事態が想定される。この中に武装工作員が紛れ込んでいれば、海上保安庁海上自衛隊が対処に当たるが、武装工作船と間違えて避難民が乗ったボートを撃沈すればどうなるか。
 非戦闘員の殺害は戦時国際法に反する。だが、日本にはこれを裁く軍法会議も軍刑法もない。市民団体などが「殺人罪」で告発すれば、自衛官は一般裁判所の法廷に立たされかねない。
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 国を守るため、あるいは海外での人道支援のために働く自衛官が命令で行った行為が「殺人罪」に問われかねない。しかも、その罪を裁くのは、必ずしも軍事的知識を備えているとはいえない裁判官だ。そんな不条理が存在する一因が憲法76条2項だ。

 「特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行うことができない」
 発足から60年以上がたつ自衛隊だが、この規定が原因となり、これまで政府内や国会審議の場で軍法会議の設置や軍法の整備が議論されることはほとんどなかった。
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 イラク人道復興支援活動の第1次派遣部隊に参加した隊員の間では、冗談ともつかぬ会話が交わされていた。
 「おれたちが訴えられたら旭川地裁で裁かれることになるのかなあ…」
 同隊は北海道旭川市に拠点を置く陸上自衛隊第2師団を中心に編成されていた。軍法会議があれば派遣地域で裁判を受けることもできるが、現行制度は日本に戻らなければならない。
 加えて一般裁判所では審理に時間がかかる。証拠保全のため装備が押収され、指揮官を含む部隊関係者が証人として出廷を余儀なくされる事態も想定される。イラクに派遣された隊員が心配したのは、自身に降りかかるかもしれない裁きだけではなく、部隊の円滑な任務遂行が妨げられる事態でもあった。
 ソマリア沖・アデン湾での海賊を取り締まるため21年6月に成立した海賊対処法をめぐっても、軍法会議の不在は政府内に不協和音を引き起こした。

 自衛艦に乗る海上保安庁の係官が逮捕した海賊を日本が裁く場合、刑事訴訟法に基づき48時間以内に送検しなければならない。日本は現地で軍法会議を開くことはできず、遠く離れた日本に容疑者を送り届ける必要がある。法務省は「アデン湾からの送検は無理」と主張し、法案に反対した。
 結局は刑訴法の例外規定で送検までの時間を延長できることで落ち着いた。だが、逮捕した海賊を日本で裁いたケースは、23年3月に発生した商船三井タンカー襲撃事件の1件にとどまっている。
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 戦後長らく、自衛隊の活動は災害派遣など国内に限定されていた。冷戦終結後、自衛隊は国連平和維持活動(PKO)やイラクでの人道復興支援活動などで世界各地に展開するようになった。
 しかし、自衛隊に関する司法制度に関しては、自衛隊発足以来変わらず、一般裁判所で裁判が行われることになっている。防衛研究所主任研究官、奥平穣治は「危害許容要件の判断など、軍事事件には専門性が必要になる。軍事的素養がない裁判官が判断できるのか」と疑問を呈する。

 軍事事件の裁判に当たっては、武器の使用、部隊の運用、自衛隊の派遣先の地勢など特殊な専門知識を背景としなければならない。徴兵制も戦争経験もない戦後日本では国民一般に軍事知識が十分に普及しておらず、裁判官もこの制約から自由とはかぎらない。
 一方、軍法会議を持つ米国では裁判官、検察官には軍法務官が充てられる。英国の軍法会議も、たとえば被告人が将校となる事件の審理を担当する「高等軍法会議」では5人以上の将校と法務官が裁判官となる。法務官は弁護士資格を持つ軍人だ。法律の知識だけでなく、軍事的経験も兼ね備えることで軍に特有の事件について的確な判断を下すことが期待されている。
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 軍法と軍法会議の不在に伴う弊害は、平時においても実例がある。
 20年2月、海上自衛隊イージス艦「あたご」が千葉県の野島崎沖で漁船と衝突する事故が発生した。この際、業務上過失致死罪などで起訴されたのは、当直だった水雷長と航海長だった。2人は最終的に無罪判決が確定したが、あたご艦長は自衛隊法に基づく懲戒処分を受けたものの起訴されることはなかった。

 米軍で同じような事故が発生すればどうなるか。13年2月、愛媛県宇和島水産高校の実習船えひめ丸米原子力潜水艦に衝突され9人が死亡した事故では、原潜艦長らが査問会議にかけられ、名誉除隊に追い込まれた。指揮官が責任を負うのが、軍事組織の常識だ。
 元海将の伊藤俊幸は「艦長が何ら罪を問われない状態は軍事組織としてはありえない」と指摘する。戦う組織にとって、指揮官の命令が隊員に徹底されることは不可欠だ。伊藤は「いざというときに責任を取れない艦長に、なぜ偉そうに命令されなければならないのか、ということになる」と警鐘を鳴らす。
 イラク人道復興支援活動や海賊対処活動など、これまで自衛隊が初めてとなる活動を行う際、軍法会議の必要性は一部の政府関係者の間で意識されてきた。とはいえ、実際に設置に向けた動きが具体化したことはない。
 常に壁となったのは、特別裁判所の設置を禁じる憲法76条2項の存在だ。安保法制が整備されても、司法制度に関しては「戦う組織」としての体制が伴っていないのが実態といえる。(敬称略)