国柄探訪: 敗者の尊厳

_/    _/_/      _/_/_/  _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/        _/  _/    _/  _/           Japan On the Globe (34)       _/  _/    _/  _/  _/_/      国際派日本人養成講座 _/   _/   _/   _/  _/    _/    平成10年4月25日 2,412部発行  _/_/      _/_/    _/_/_/   _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/        国柄探訪: 敗者の尊厳		_/_/   _/_/           ■ 目 次 ■_/_/      1.海外を驚かせた敗戦直後の日本_/_/      2.ドイツの敗戦_/_/      3.日本の敗戦_/_/      4.何を守ろうとしたのか?_/_/      5.身はいかならむとも_/_/      6.驕らず屈せず_/_/      _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/■1.海外を驚かせた敗戦直後の日本■     「日本破れたりとはいへ、その国民性は決して軽視すること    ができぬ。例へば日本国民の皇室に対する忠誠、敗戦後におけ    る威武不屈、秩序整然たる態度はわが国の範とするに足る」      (中華民国国民政府・王世杰外交部長)[1,p54]     滞京二週間の印象としてまづあげられることは日本国民がこ    の僅か二週間の間にも最初の衝撃から段々に醒めて雄々しくも    着々復興の準備にとりかゝりつゝあるといふことである。日本    に着くまでは「浪人」や右翼の連中が相当うるさいことだらう    と想像してゐたが実際来て見て全国民が余りにも冷静なのに驚    いた。(AP通信社東京支配人ラッセル・ブラインズ氏)[1,p41] 敗戦直後の日本は、世界にこのような驚きを与えていた。国家存亡の危機に発揮されたこの「国民性」とはどのようなものであったか、同じ敗戦国ドイツと比較しつつ、史実をたどってみたい。■2.ドイツの敗戦■      「ドイツ国民がいつかもう強くもなく、自らの生存のために    血を流すほど献身的でもなくなれば、滅びてもっと強い国に抹    殺されるがよい」     この恐ろしい言葉が彼(ヒットラー)の本心だったのはドイ    ツの敗戦が近づくにつれて明らかとなり、彼は断固として降伏    を拒否して傷ついたドイツ陸軍を勝ち目のない戦いにかり立て    た。[2,p326] 降伏するためには、ヒットラーを暗殺する以外になかったが、ライプチヒ市長だったゴードラー、および、ロンメル将軍によるそれぞれの暗殺計画はいずれも成功しなかった。 1945年5月には、ドイツの全領土は連合軍に蹂躙されていた。ヒ ットラーは自殺し、政府要人はすべて自殺、逃亡、あるいは、捕虜となり、まったくの無政府状態に陥った。 わずかにデーニッツ提督がヒットラー総統の後継者として、降伏条件に署名したが、これは軍に関する降伏だけで、国家としての降伏ではなかった。しかも提督は降伏直後、捕えられて、以後、後継者と称するものはいなかった。 戦後のニュールンベルグ裁判では、ゲーリング、ローゼンベルグ、リッペントロップ、ヘス、カイテル、カルテンプルンナーら、指導者達は、「総統の催眠術にかけられていた」などと、ヒトラーにすべての罪をかぶせようとした。後にイスラエルの法廷で裁かれたアイヒマンも「総統の命令に従っただけ」と述べている。■3.日本の敗戦■      当時日本本土には陸軍二百二十五万三千、海軍百二十五万、    計三百五十万余の兵力が依然として温存されていた。また陸海    軍を合せて一万六十機の保有航空機のうち、少くとも六千機以    上は特攻作戦に使用可能と考えられていた。・・・     海軍こそ戦闘可能の戦艦は皆無で、空母二隻、巡洋艦三隻、    駆逐艦三十隻、潜水艦五十隻という劣勢に追い詰められていた    が、この温存兵力の無言の圧力は無視することができない。[1,p16] ドイツは交渉の余力もなく壊滅したが、連合国はこの「無言の圧  力」を考慮して、ポツダム宣言において条件を示して降伏勧告を行い、日本政府はさらに、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」という条件付きで受諾する事を宣言した。これを受け取ったアメリカ側では敗戦国とは思えぬ堂々たる対応と迫力に打たれたという。[2,p334]     今日ドイツが有する唯一の「政府」は聯合国にこれを仰ぐほ    かなく、ドイツ人みづから政府を構成する許可が与へられるま    ではこの状態が続くであらう、しかし日本は全体としては今後    も占領されることになつてをらず(編者注:占領は一部の地点    のみで、全土ではない)、これはドイツと比較して真に大きな    差異である。日本には政府喪失といふ事態がないばかりか、強    大且つ活溌な政府を有してゐる。聯合国はこの政府に対して命    令を発することは出来ても、聯合国みづから日本を支配するこ    とはないであらう。(NBC放送、R.G.スウィング氏)    [1,p20]■4.何を守ろうとしたのか?■ さて日本政府がぎりぎりの条件として提示した「天皇の国家統治の大権」という条項で、日本政府は具体的には何を守ろうとしたのか? 東京裁判で裁かれた東条英機は、次のような証言を行っている。     国政に関する事柄は、必ず右手続で成立した内閣、及び統帥    部の輔弼輔翼によって行われるのであります。これらの助言に    よらずして、陛下が独自の考えで国政または統帥に関する行動    を遊ばされることはありませぬ。この点は旧憲法にもその明文    があります。・・・    それ故に一九四一年(昭和十六年)十二月一日開戦の決定の責任    も、また内閣閣員及び統帥部の者の責任でありまして、絶対的    に陛下の御責任ではありません。[2,p337] 開戦の決定は、自分たち内閣の責任だと言う。東条は自らの生命を抛って、天皇を戦犯として起訴することの非を訴えたのである。 占領軍司令官マッカーサーも、東条と同様に、天皇を守ろうとする国民の無言の気迫を感じていたのであろう。「天皇を戦犯にするようなことがあれば20個師団100万の軍隊と数十万の民政要員が必要だ」と述べている。[2,p338]■5.身はいかならむとも■ 一方、昭和天皇はどのように、この困難な時期に対処されたのか。マッカーサーは、昭和20年9月27日の昭和天皇との最初の会談を次のように語っている。     どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもって御出    会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責    任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。     これには実にびっくりさせられました。     すなわち「私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、    また事件にも全責任をとります。また私は、日本の名において    なされた、すべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対    しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の    判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題でない。     構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負いま    す」     これが陛下のお言葉でした。私は、これを聞いて、興奮の余    り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうこ    とが出来れば進んで絞首台に上ることを申出るという、この日    本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、そ    の後ますます高まるばかりでした。     陛下は御自身に対して、いまだかつて恩恵を私に要請した事    はありませんでした。とともに決して、その尊厳を傷つけた行    為に出たこともありませんでした。[3] 昭和天皇のお言葉は、終戦時の次のお歌と照応している。  爆撃にたふれゆく民のうへをおもひいくさとめけり身はいかな  らむとも  身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民を思ひ  て■6.驕らず屈せず■ 戦争は避けられるなら避けた方が良い。またひとたび、開戦となったら、負けない方が良い。しかし負けたらお終いで、勝者がすべて正しく、敗者がすべて悪かったとという事ではない。敗戦に処して、昭和天皇も、東条英機も、そして多くの国民も、自らの生命を投げ出しても、守ろうとした「なにもの」かがあった。 その姿勢において示される敗者の尊厳によって、勝者の尊敬を受けることもある。一国を国際社会の中で、存在感あるものにするのは、こうした自尊自立の精神である。決して国の大きさや経済力、武力、戦争の勝ち負けといった物理的な要因だけではない。 これを敷衍すれば、戦後の日本経済の奇跡的な成功に勝者として驕ってはならず、また第二の敗戦とも呼ばれる現在の経済危機においても、敗者として卑屈になる必要はない。勝者はその勝利によってどのような価値を追求するのか、また敗者は敗戦に処して、本当に守るべき価値は何なのか、を問うべきである。 敗戦当時に、昭和天皇と国民が示された「敗者の威厳」は、今後の日本の取るべき道を考える上でも、重要な指針を示唆している。[参考]1. 「忘れたことと忘れさせられたこと」、江藤淳、文春文庫、H82. 「敗者の戦後」、入江隆則、徳間文庫、H103. 読売新聞、S30.9.14朝刊、「新編宮中見聞録」、木下道雄、 日本教文社、H10