主な要旨「もっともっと嫌いな人がいた。それは自分自身だった」

主な要旨「もっともっと嫌いな人がいた。それは自分自身だった」


 平沢さんの主張「仲間を守る一言」の要旨は次の通り。(表記は原文のまま)
 
 「Aちゃんをはぶろうよ。」仲の良い友達から、突然言われた一言だった。「昨日まで仲良くしていたのに、何でいきなり?」しかし、その疑問は口に出せないまま、なんとなくうなずくだけで、のどの奥に沈んでいった。
 次の日から、身近な友達の全員がAちゃんを無視し始めた。Aちゃんをわざと一人にした。Aちゃんから笑顔が消え、やがて近づいてこなくなった。周りの友達は笑っていた。
 「こんなのいじめだ」と分かっていた。繰り返される残酷な光景に対し、声が出なかった。これを言ってしまったらどうなるのか。自分がはぶられることは、絶対に嫌だった。自分の意見が言えないまま。Aちゃんを避け続けた。
 それからというもの、友達という存在が、「疲れる人」へと変わっていった。嫌われたくないから、とりあえず何でも「うん」と答えた。私はそんな「友達」が嫌いだった。しかし、もっともっと嫌いな人がいた。それは自分自身だった。はっきりと「良い」も「悪い」も言えない自分が大嫌いだった。ある夜、ノートに真っ赤な文字で、「大っ嫌い、大っ嫌い。死ね死ね死ね……」と書き殴った。はっきりと「自分なんか」と書いていた。

 そんな中、インターネットを開き、私はある言葉と出会った。「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる。」ドキッとした。その時やっと気づくことができた。自分が変わらなければならないことを。私が言うべき言葉は「うん」という「自分を守るための言葉」ではなく、「こんなのいじめだよ。もうやめよ!」という、「大切な仲間を守るための言葉」だったということを。
 「もう、やめよ。」次の日、勇気を出して、私は友達に伝えた。「……うん。」友達は私の言葉を受け止めてくれた。みんなでAちゃんに謝った。
 今年6月、県内の中学2年生がいじめを苦にして、自らの命を絶った。もしAちゃんを避け続けていたとしたらと考えたとき、私は恐ろしい気持ちになった。周囲の人たちはみな、私のように、救いの一言を飲み込んでしまったのだろうか。「やめようよ。」その一言は、命が失われてからでは遅い。いじめは人を死に追いやる。
 私は、今では仲の良い友達にも「良い」、「悪い」と自分の思いを伝えている。今でも時々、「◯◯ちゃんってうざくない?」そんな言葉を耳にする。でも私は、「そんなことないと思うよ」と、自分の意見を言うようにしている。その一言が、周りの大切な仲間を守る一言になるからだ。