1本5000万円? がん特効薬、上陸の衝撃

1本5000万円? がん特効薬、上陸の衝撃

 遺伝子改変T細胞療法――。やや難解な名称だが、がんを撲滅する可能性があるとして、医薬品業界が最も注目している新技術だ。「CAR―T」や「TCR―T」とも呼ばれ、世界中の製薬会社がこれを応用した新薬開発にしのぎを削っている。ただこの新技術、壊すのはがんだけではない。日本の薬価制度や製薬会社の研究体制をも揺さぶる破壊力を秘めている。
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■新しい時代に沸く世界の製薬界

 9月5日、米国ボストンで「CAR―TCRサミット」と銘打つイベントが始まった。製薬大手やベンチャー企業、大学、医療機関に所属する一線の研究者が世界中から集結。1人あたり70万円程度とされる参加費にもかかわらず、3回目となる今年は昨年の2倍の約600人が一堂に会した。
 活況を呈したのには理由がある。この日までの1週間、世界中で関連ニュースが立て続けに発生したためだ。
 8月28日、米製薬大手ギリアド・サイエンシズが119億ドル(約1兆3400億円)もの巨費を投じるM&A(合併・買収)を発表。CAR―T研究では知らぬ人のいない米創薬ベンチャー、カイト・ファーマを買収した。その3日後、医薬品世界2位のノバルティス(スイス)がCAR―Tを使う世界初の薬「キムリア」を米国で発売。9月4日には武田薬品工業がこの分野への参入を表明した。
 「この1週間を見ただけでも、この治療法がいかに注目されているかがよくわかる」。武田薬品で同療法の研究を取り仕切る、再生医療ユニットグローバルヘッドの出雲正剛は興奮気味に話す。「研究者たちは時代の最先端にいるとの高揚感に包まれている」(出雲)。それだけ注目される遺伝子改変T細胞療法とはそもそもどんな技術なのか。
 簡単に言えば、ヒトの免疫細胞の1つであるT細胞を取り出して遺伝的に加工し、がんに対する攻撃力を高めた上で患者の体に戻す、という方法だ。CAR―Tというのは、遺伝子操作で表面に人工的にがんを見つけるレーダーのような化合物をつけたT細胞を意味し、それによってがんをより強く攻撃できるというわけだ。薬というよりは治療法の色彩が濃いが、各社は医薬品として販売する考えだ。

 ノバルティスが発売したキムリアは、小児・若年者の急性リンパ性白血病患者の8割で効果を示した。小野薬品工業のがん免疫薬「オプジーボ」でさえも2~3割とされる中、驚異的な治療成績といえる。しかも投与はたったの1回ですむ。この結果は、世界中で衝撃を与えた。10月下旬にはカイトを買収したギリアドが大細胞型B細胞リンパ腫の成人患者向け治療薬「イエスカルタ」の承認を米国で取得。今後も同じ分野の医薬品が相次ぎ承認・発売される見込みだ。

■日本勢も相次ぎ参入

 「私たちは新しい時代の窓口に立っている。一緒にがんばりましょう」。10月4日、武田薬品最大の湘南研究所(神奈川県藤沢市)。出雲は、2人の研究者を握手で出迎えた。山口大学医学部教授の玉田耕治と、創薬VBのノイルイミューン・バイオテック(東京・中央)社長の石崎秀信。CAR―T分野では後発組の武田薬品にとって、医師でもあるこの2人が今後の研究のカギを握る。
タカラバイオの研究棟。日本勢も遺伝子改変T細胞療法に力をいれる(滋賀県草津市)
タカラバイオの研究棟。日本勢も遺伝子改変T細胞療法に力をいれる(滋賀県草津市
 ノバルティスなどが対象にしている「血液がん」ではなく胃がんや肺がんなど、CAR―Tが効きにくいとされる「固形がん」を狙う。玉田が開発した特殊なCAR―Tを使うのがポイントで、19年にも臨床試験を始める方針だ。
 日本企業の中で最も早くからCAR―Tに携わってきたのはタカラバイオだ。特にT細胞の遺伝子を改変する際、遺伝子の運び屋に一日の長がある。効率よくT細胞の能力を高められるのが強みだ。
 タカラバイオ取締役の木村正伸は都内と自社施設のある関西とを往復する毎日だ。その他にも、共同研究先の三重大学厚生労働省などがある霞が関の訪問に加え、年3~4回の渡米もこなすのは「後から来た勢力に追い越されないようにしたい」との思いがあるからだ。国内で臨床試験の手続きを進めており、18年3月末までにCAR―TやTCR―Tの患者への投与を実際に始めることを目指す。
 1回分の投与量を作製するのに2人がかりで2週間――。第一三共はギリアドが買収したカイトと今年1月に提携し、米国では「イエスカルタ」として承認された「KTE-C19」の日本国内での製造準備を進めている。研究開発本部長の古賀淳一は「大量生産は難しい。人海戦術になる」と話す。国内でいち早く供給体制を整えるためには自前生産にはこだわらない。「医薬品製造受託会社との連携を探っている」(古賀)

オプジーボは半額に

 製薬界は「新しい時代」に沸くが、課題は価格だ。
ノバルティスの新薬「キムリア」
ノバルティスの新薬「キムリア」
 ノバルティスの8月31日に米国で発売したキムリアは、1回の治療に47万5千ドル(約5300万円)かかる。ギリアドのイエスカルタは37万3千ドル(約4200万円)に設定された。順当にいけば、今後1~2年で日本でも承認されておかしくないが、障害となるのが日本の薬価制度だ。
 オプジーボの場合、当初患者1人あたりに年間約3500万円かかる薬価が付いた。保険財政を揺るがしかねないとして既存ルールを除外した特例が適用され、17年はじめに薬価が半額に引き下げられた。

 第一三共の古賀は、「個人的な見解だが、日本では米国ほどの価格は付かないだろうし、つけるべきではない」と指摘する。日本では、薬価は国が決め、企業は値付けに関与できない。使われた薬剤費は一部の自己負担分を除き、大部分が医療保険でカバーされる。一方で、新薬開発には2千億円超の研究開発費を要するとの指摘もあり、薬価の高騰は止まらない。劇的な効果を示す新薬が相次いでいるのも確かだが、あまりに高額になれば保険の仕組みが崩壊しかねない。
ノバルティスの米国の施設でT細胞を遺伝的に加工し、「キムリア」を製造する(ニュージャージー州)
ノバルティスの米国の施設でT細胞を遺伝的に加工し、「キムリア」を製造する(ニュージャージー州

■効いた患者だけ薬代支払い

 「現在の価格でも費用対効果は高い」。ノバルティスの次期最高経営責任者(CEO)、バサント・ナラシンハンは9月下旬に来日、今後審査当局との話し合いに入るもようだ。
 1つの折衷策になるのでは、と業界が期待している方法がある。ノバルティスがキムリア発売の際、低所得者層向けに適用した「アウトカムベース(成果報酬型)」の支払い方法だ。1カ月後に腫瘍が検出されなかったときにのみ、効果があったとして薬価の支払いを求める。
 世界中の薬事当局が高額な薬に拒否反応を示しはじめている中で、受け入れやすい方式といえるかもしれない。「透明性のあるフェアな薬価を考える上で一つのアプローチだ」(米セルジーンのマーク・アレスCEO)と企業側は応援する。薬価制度で問答無用に低い価格をつけられるよりは――。
 そもそも世界では柔軟な薬価体系が適用されている例もある。日本では前例がないが、東京大大学院特任准教授の五十嵐中は、「米英伊などでは実例がある。一方、患者の努力で検査値が改善したら患者自己負担を下げる手法もある」と話す。
 ただ、日本では壁は高そうだ。厚生労働相加藤勝信は、成果報酬型について「薬の効果をどう判定するか、患者負担や保険給付の関係をどう考えるかなど多分な問題がある」と慎重。製薬関係者は「議論自体は相当盛り上がっているが、早期の実現は難しいだろう」と話す。
 ある製薬大手首脳は、国の予算の単年度主義がネックになっていると見る。「1回の治療による高額報酬を保険でカバーできないなら、支払いを分割にすればいい。薬価制度を見直す時期にきている」。CAR―Tの登場による「薬の新しい時代」は硬直的な制度を問い直している。
=敬称略
(戸田健太郎