東芝も陥落 パソコン日本勢、どこで間違えたか

東芝も陥落 パソコン日本勢、どこで間違えたか

エレクトロニクス
 東芝は5日、シャープにパソコン事業を売却すると発表した。東芝は世界初のノートパソコン「ダイナブック」を生んだ草分け的存在だが、実質的にシャープの親会社である台湾・鴻海(ホンハイ)精密工業の傘下に入る。NEC富士通もパソコン事業を中国企業に売却しており、日本勢のパソコンは外資に敗北したといえる。その背景からは、標準化、低価格化、商品企画力という日本企業の製品作りの弱点が浮かび上がる。
日本企業のパソコン事業は相次ぎ外資の傘下に入っている(東京・千代田の店舗)

■NEC、独自仕様からの転換遅れる

 三菱電機日立製作所ヤマハ、トミー(現タカラトミー)――。1980年代のパソコン黎明(れいめい)期、事業を手掛けていた企業の顔ぶれを見ると、現在は撤退した企業の名前も多い。家電に代わる成長市場として、各社が狙いを定めていた。
 中でも最も力が入っていたのがNECだ。当時のパソコンは米IBMが公開した仕様に基づいた「IBM互換機」が主流だったが、NECは82年、独自仕様の「98シリーズ」を発売した。一時は国内シェアの半分を超え、98シリーズは国産パソコンの代名詞といわれた。ちなみに、89年に東芝が発売した「ダイナブック」はIBM互換機だった。
 NECの牙城が崩れたのは、米マイクロソフトの基本ソフト(OS)「ウィンドウズ」と、米インテルのCPU(中央演算処理装置)の搭載機がパソコンの業界標準とされるようになった90年代半ばごろだ。特にインターネットに対応した「ウィンドウズ95」が1995年に登場して以降、「ウィンテル(ウィンドウズとインテルをつなげた造語)」搭載機がまたたく間に存在感を高めた。NECは米パソコンメーカーのパッカード・ベルを傘下に収めて対抗しようとしたが、いったん標準化競争に敗れた代償は大きく、差は縮まらなかった。

■デルの「直販モデル」、価格競争に強く

 国内パソコン市場の出荷台数は95年に511万台と前年比70%伸び、2000年には1141万台とわずか5年で倍増する。普及期に入り価格競争が本格化すると、急速に成長したのが米デルだ。ネットを介してオーダーメードで製品を購入できる「直販モデル」で価格を抑えたほか、コールセンターを充実させてアフターサービスを重視する姿勢も顧客の支持を集めた。法人向けで従来ながらの情報機器ディーラーなどに販路を頼る日本勢は、ネット時代のビジネスモデルを生かして低価格化を進めたデルに対抗できなかった。
 最盛期を過ぎたパソコン市場は05年、1つの転機を迎える。世界シェア3位のIBMが中国レノボ・グループへ事業を売却する。低コストで製造する中国や台湾のメーカーが増えて一般家庭に普及したことで、もはや成長市場ではないとみなされるようになった。日米の情報関連企業の間で、IT(情報技術)サービスやソフトウエアの事業を強化し、機器の製造は新興国企業に委ねる流れが強まった。

スマホタブレットに市場取られる

 パソコンの情報機器としての優位性の低下は、米アップルのスマートフォンスマホ)「iPhone」登場で鮮明になる。携帯電話と情報端末を融合させた商品企画力やデザイン力を、日本のパソコンメーカーは持ち合わせていなかった。10年には気軽に持ち運べるタブレット「iPad」が発売。ノートパソコンからの置き換えも進み、12年に821万台とピークだったノートパソコンの国内出荷台数は17年に532万台まで落ち込んでいる。
 2010年以降、日本メーカーの間では国内再編の動きも始まった。11年にはNECがレノボと事業を統合、17年には富士通レノボと統合すると発表しているが、いずれもレノボが主導権を握るスキームだ。一時は「VAIO(バイオ)」ブランドで人気を集めたソニーもパソコン事業を14年を独立させ、バイオ(長野県安曇野市)として切り離した。
 半導体や液晶と同じく、官主導でパソコン会社を作ろうという動きもあった。15年にはバイオ、富士通に加え、会計不祥事の影響で事業整理を進める東芝3社の統合案が浮上する。しかし成長戦略や拠点の統廃合で折り合えず白紙になった。東芝のパソコン事業は鴻海・シャープの傘下でどう生まれ変わるか。鴻海の事業基盤とうまくかみ合えば、東芝のノートパソコンが世界で再び輝くかもしれない。
(池下祐磨、国司田拓児)