体験者なき時代にどう戦争伝えるか 文献のみ頼るのは危険 裏表ある高級軍人証言

体験者なき時代にどう戦争伝えるか 文献のみ頼るのは危険 裏表ある高級軍人証言


第二次大戦・太平洋戦線年表第二次大戦・太平洋戦線年表
 平成最後の終戦の日となる8月15日。戦後73年を迎え、戦争体験者から直接話を聞くことが困難になる今後、いかにして残された記録を読み解いていけばいいのか。旧陸海軍の高級軍人らから詳しく話を聞いた経験を持つ大和ミュージアム広島県呉市)館長の戸高一成氏と、現代史家の大木毅氏が論じ合った。(構成 磨井慎吾)
 □大和ミュージアム館長・戸高一成氏 文献のみ頼るのは危険
 □現代史家・大木毅氏 裏表ある高級軍人証言
 戸高 まず、先月の西日本豪雨に関し全国の皆さまに一言お礼を申し上げたい。呉市への出入りも困難な状況下で、本館には毎日数百人の来館者があり、各地から激励もいただき本当にありがたく、深く感謝しています。
 平成最後の8月15日を迎え、これからは私のように戦争を知らない人間が、もっと知らない人に伝えていくという非常に難しい時代に入る。ただ、だからこそ客観的で冷静に歴史を見ることができる時代になったとも言える。
 大木 私は現在もっぱらドイツ軍事史専門だと思われていますが、大学院でドイツ現代史の研究をする前に、中央公論社から出ていた『歴史と人物』という雑誌で編集者のまねごとをしていました。今から30年以上前ですからまだ将官(注(1))もいたし、佐官級はみなご健在で、実際にお会いして詳しくお話を伺う機会を得たわけです。当時、戸高さんは史料調査会(注(2))のお仕事をされて、『歴史と人物』にも深く関わっていらした。
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 戸高 私がいた頃の史料調査会で直属上司だった土肥一夫さんは海軍の中心部で参謀をずっと続けた方。周囲に中佐、大佐クラスの人が常に来ており、“門前の小僧”で勉強させていただきました。
 そんな中で一番印象に残っているのは、皆さん貴重な体験を本に書いたりするのですが、話が文章として整理された段階で脱落する部分があることでした。ほとばしり出るような個人的感情やなかなか言えない本音など、実際の会話では出るが、文字には残らないものがある。体験者が亡くなった後、残された文献だけをそのまま信じることの危険さを強く感じました。そうした実際に会って聞いた話も、何とか残さないと。

 大木 私は外国の軍隊の文書をよく読みますが、日本の陸海軍の文書くらいメイキング(文飾)が激しいものはない。ある報告書の草案と、それに手が加わったものと実際にできたものの3つが出てきたことがありましたが、いかにまずいところが削られて、きれいな体裁になっていったかよく分かった。これでは情報を取り入れて次の作戦に生かそうにも、自分たちが誤ってしまうんじゃないかとすら感じました。だから台湾沖航空戦(注(3))の戦果のように、全くの間違いにもかかわらず次の作戦を立ててしまったりということが起こるわけです。
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 戸高 たとえば豊田副武(そえむ)連合艦隊司令長官(注(4))の幕僚だった人は、回想録で豊田さんのことをあまり悪く書いていません。ただ、実際の司令部はどうだったか聞いてみると、朝から晩までガミガミ言われて仕事にならなかった、というようなことを言うわけです。それを知った上で書かれたものを読むと、読み方も違ってきますね。
 大木 私の場合、戦争後期に比島(フィリピン)で戦った第14方面軍の参謀副長だった小沼治夫さん(元陸軍少将)に話を伺う機会がありました。小沼さんは話すうちに感極まって「私は比島で戦車1個師団を潰した悪党ですから」(注(5))と、ほろほろと涙を流した。ところがその話を原稿にまとめてお見せすると自分で書くと言い出して、「若干なりと近代戦なるものを戦史に残し得たことは、私の感謝に堪えざるところである」と、ずいぶん調子が高くなってしまった。陸軍の作戦系の参謀は決して自分の弱みを見せない、失敗を認めないというのが習い性となっていて、公に出るものでは調子が高くなる。これは高級軍人の書いたものを読むときに気をつけねばと思いましたね。
 〈近年はアジア歴史資料センター(注(6))のネット資料だけを用いて論文を書く研究者も増えてきているが、2人はその傾向に警鐘を鳴らす〉

 戸高 昔のように国会図書館防衛研究所に行って、簿冊を一冊一冊めくって調べるような苦労をしなくても原史料にすぐアクセスできる時代になりましたが、逆に当たっておくべき史料が加速度的に増えたともいえるので、研究者は労力を投じて勉強してもらいたい。難しくてもきちんと当時の日記やメモの読解や戦後の談話を読まないと。ある決定に際し公文書を1枚見てこれが全て、と思ってはだめで、あらん限りの傍証情報を当たらなければならない。
 大木 当事者がいなくなる以上、これからは公文書に当たるしかなくなるのですが、陸海軍の文書は、字面ではそう書いてあるがその裏には、ということが多々ある。それを正確に読むには日記やメモといった私文書と照らし合わせないといけないのですが、これがやっかいな代物で。僕は甲谷悦雄さん(元陸軍大佐、戦中にドイツ駐在)のメモや田中新一(元陸軍中将、開戦時の参謀本部作戦部長)の日記とにらめっこしたことがあるんですが、やはり我流の崩し方をしてあるから読めるようになるまで一苦労なんですよ。
 戸高 私が初めて米国立公文書記録管理局に行ったのは1980年なんですが、関係者の手帳の切れっ端みたいなものもきちんとファイリングされていたりする。資料の保存に対する熱意や責任感が日本に比べて米国は非常に強いという印象を受けましたね。歴史というのは思想ではなく事実ですから、良いことも悪いこともある。片方だけ見て、自分に都合のいい歴史観を作るのは戦前だけでなく、戦後も続いている。両方を見て初めて歴史が理解できるのであって、ちゃんと理解できなかったものは第三者に伝えることもできない。だから全部を残さなくてはならない。
 最後に、戦争があってはならないのは確かです。しかし、戦争を避けるためには戦争を知らなければならない。知るためには歴史に興味を持って自分で勉強する必要がある。その知りたい気持ちを刺激するのが、今後の博物館や資料館の役割だと思いますね。

 【注】(1)旧軍将校の階級は、上から将官(大将・中将・少将)、佐官(大佐・中佐・少佐)、尉官(大尉・中尉・少尉)に大別される。一般的に将官に達するのは早くても40代半ば。(2)旧海軍に関する史料の収集、編纂(へんさん)を行った旧海軍軍人主体の財団法人。(3)昭和19年10月、台湾・沖縄に来襲した米海軍空母機動部隊を迎撃した航空戦。米軍の実際の損害は軽微だったが、日本軍は報告ミスの連鎖で「空母11隻撃沈」と大戦果を発表。米海軍に壊滅的打撃を与えたとするこの誤認戦果を信じた日本軍は、フィリピン・ルソン島での決戦方針を同レイテ島に急遽変更し、多大な損害を出すことになった。(4)1885~1957年。昭和19年5月~20年5月まで連合艦隊司令長官を務め、レイテ沖海戦戦艦大和の水上特攻など戦争後期の重要な海軍作戦を命令した。(5)レイテ島の戦いで日本軍が敗北した後、米軍は昭和20年1月にルソン島に上陸。同島には陸軍でも貴重な戦車師団である戦車第2師団が配備されていたが、優勢な米軍戦車部隊の前に壊滅した。(6)平成13年開設。明治期から終戦直後までの日本の公文書のインターネット公開を進めている電子資料センター。
【プロフィル】戸高一成(とだか・かずしげ) 昭和23年、宮崎県生まれ。財団法人史料調査会理事、昭和館図書情報部長などを経て、平成17年から呉市海事歴史科学館大和ミュージアム)館長。編著書は『[証言録]海軍反省会』など多数。
【プロフィル】大木毅(おおき・たけし) 昭和36年、東京都生まれ。立教大大学院博士後期課程単位取得退学。防衛研究所講師などを経て著述業。著書に『ドイツ軍事史』などがあるほか、翻訳も多数。平成28年より陸上自衛隊幹部学校(現・同教育訓練研究本部)講師。