被爆直後の長崎上空を飛んだ日本のパイロットは何を見たか

被爆直後の長崎上空を飛んだ日本のパイロットは何を見たか

なぜ精鋭部隊はみすみす投下を許したか
1945年8月6日、広島が新型爆弾によって甚大な被害を受けた3日後、小倉を経て長崎に飛来したB-29から2発めの新型爆弾が投下された。その長崎からわずか20kmしか離れていない大村基地には、新鋭機「紫電改」を擁する精鋭の防空部隊が駐屯していたにもかかわらず、なぜただの一機も邀撃に上がらなかったのか? この部隊に所属していた搭乗員たちの証言から浮かび上がるのは、当時の日本陸海軍のあまりに脆弱な危機管理体制だ。

一面、廃墟となって人の気配も感じられない

「離陸してみると、長崎上空は黒雲に包まれ、その下は雨が降っているようでした。一通りの飛行テストを終えて、午後3時頃、着陸前に雲の下に入ってみたんです。地上は完全な焼野原だったですね。真黒な雲が広がっていて、雨がザーッと降っていて。高度500メートルぐらいで、残骸と化した浦上天主堂のまわりを旋回して見てみましたが、そりゃあ酷いもんでしたよ」
と、歴戦の戦闘機搭乗員だった佐々木原正夫少尉(故人・1921年-2005年)は語る。
佐々木原さんは昭和14(1939)年、甲種飛行予科練習生4期生として海軍に入り、空母「翔鶴」零戦隊の一員として、昭和16(1941)年12月8日の真珠湾作戦(機動部隊上空哨戒)を皮切りに、翌昭和17(1942)年、史上初の空母対空母の戦いとなった珊瑚海海戦、そしてガダルカナル島攻防戦、南太平洋海戦などの激戦に参加、空母「瑞鶴」に異動して昭和18(1943)年2月、ソロモン諸島の戦いで重傷を負った後は、主に戦闘機の空輸任務と、新鋭機「紫電」「紫電改」の、実戦部隊に配備される前のテスト飛行に任じた。
佐々木原正夫少尉
昭和20(1945)年7月末、「紫電改」で編成された防空部隊、第三四三海軍航空隊(三四三空)戦闘第七〇一飛行隊に転勤を命じられ、長崎県大村基地に着任したばかりだった。当時、23歳。この時点ですでに、予科練同期の戦闘機乗り21名のうち、19名が戦死し、1名は米軍捕虜になっている。
「大村に赴任したのは、すでに全軍が、来たるべき本土決戦に備えている時期で、もしも米軍が九州に上陸してきたら、三四三空は全力を挙げて迎え撃ち、一週間以内に総員が戦死するという見込みを聞かされました。『なんだ、俺たち、みんな死ぬのが決まっているのか』と。仕方ない、ここで死ぬんだな、と覚悟を決めました。ただ、三四三空では、一度だけ敵艦上機邀撃に出撃したものの、私自身、空戦はありませんでした」
8月9日――。
「この日はトラックを10台ぐらい連ねて、搭乗員を荷台に乗せ、総員で飛行場裏手の山登りに行きました。三四三空には戦闘七〇一、三〇一、四〇七の各飛行隊があり、それぞれ30何人かの搭乗員がいましたから、かなりの人数です。途中、私たちの乗ったトラックが故障して、修理の間、たまたまアイスキャンデー屋があったので、みんなでなかに入ってアイスキャンデーを食べていました。
すると突然、ガラスがビリビリと震えて、しばらくしてドーン、とものすごい音がした。爆撃か?と外に飛び出すと、南西の方向の青空に、真白い大きな玉が上がっていくのが見えるんですよ。その真白い玉の間から真赤な炎がはしり、そこがすぐ水蒸気に包まれて、まん丸い玉が大きくなりながらゆっくりと上がってゆく。
あれはなんだ? 広島に落ちたのと同じ『新型爆弾』じゃないか、そうだそれだ! などと口々に言いながら、とはいえ、どうしようもないので車に飛び乗ってとりあえずみんながいる山頂までは行き、弁当を食べながらきのこ雲を観察すると、どうやら爆弾は長崎に落ちたようでした。それを見ながらみんな無言になってね……。そのまま帰路について、基地に戻ったのは午後二時頃でした」
大村基地に帰ると、戦闘七〇一飛行隊の整備員が、佐々木原さんに整備のできた「紫電改」のテスト飛行を依頼してきた。ベテラン搭乗員の多くが戦死し、いまや佐々木原さん以上にテスト飛行の経験が豊富な搭乗員は、ほとんど残っていなかったのだ。
大村基地と長崎は、直線距離で20キロ足らずですから、飛行機なら目と鼻の先です。高度をとって急上昇、急降下、そして宙返りやクイックロール、スローロール、垂直旋回など、エンジンの調子も見ながら特殊飛行を実施してテスト飛行を終え、しかし、どうにも長崎のことが気になるので黒い雲の下に入ってみた。放射能のことなど、そのときは知らなかったですからね。
――雨の降るなかを低空で見た長崎の情景は、一生忘れられません。浦上天主堂の残骸はかろうじてわかりましたが、一面、廃墟となって人の気配も感じられない。思わず息を呑みましたよ。たった一発の爆弾でこんなふうになるなんて、これまで長く戦ってきた経験からも想像もつかない。惨状という言葉では足りない、あまりに酷いありさまでした」


燃料不足と機材の消耗から9日は飛行止めだった

昭和20(1945)年8月9日午前11時2分、米陸軍の爆撃機ボーイングB-29が投下した一発の原子爆弾によって長崎市街は壊滅、焦土と化した。この原爆による人的被害は、長崎市原爆資料保存委員会の調査によると、同年12月の推計で、死者73884人、負傷者74909人におよぶ。大村基地の裏手で山登り中の三四三空の隊員たちが見たきのこ雲は、まさにその原爆によるものだった。佐々木原さんは、原爆投下直後の長崎上空を、おそらく最初に飛んだ日本海軍の搭乗員となった。
「飛行機の調子はよく、着陸して『今日は非常にいいよ』と言ったら整備員は喜んでいましたが、私はいま見たばかりの長崎の光景が目に焼きついて、沈痛な気持ちでした……」
夜中になって、大村海軍病院に、長崎で被爆した重傷患者が次々と運び込まれ、海軍基地からも整備員や搭乗員の一部が救援に向かった。
「私は、翌朝は当直で、敵襲があれば出撃する『即時待機』(燃料、弾薬を満載し、命令があれば即座に出撃できる状態)に入ることが決まっていたので行きませんでしたが、帰ってきた連中が言うには、トラックの荷台から腕をつかんでひっぱり上げて乗せようとすると、腕の皮がズルズルと剥けるんだそうですよ。それで、痛い、痛いと、かわいそうで困ったとのことでしたね……」
この日、原爆を投下したB-29は、福岡県の小倉を第一目標としてテニアン島を発進、午前9時44分から三度にわたって爆撃を試みるが、小倉上空は前日の八幡市空襲による煙、もしくは霞に覆われ、照準に失敗。また、福岡県の陸軍芦屋飛行場から飛行第五十九戦隊の五式戦闘機、海軍築城飛行場から第二〇三海軍航空隊の零戦が邀撃に発進したことで、燃料の不安もあって目標を長崎に変更したと伝えられている。いまさら仮定の話をしても始まらないが、このとき、もし長崎上空に哨戒の戦闘機がいたら、あるいは別の結果になったかもしれない。
8月9日、長崎に投下された原子爆弾Fat Man(ファットマン)
当時、長崎からもっとも近い大村基地(現在の長崎空港の対岸)に展開していた戦闘機隊は、新鋭機「紫電改」を主力とする第三四三海軍航空隊(司令・源田實大佐)と、主に夜間戦闘機を装備する第三五二海軍航空隊(司令・山田竜人中佐)である。
記録によると、三四三空には「紫電改」が70機以上、三五二空には邀撃用の局地戦闘機雷電」10数機と、夜間戦闘機として対爆撃機用の「斜銃」(機体に斜めに取り付けた機銃で敵爆撃機を腹の下から撃ち上げる)を増設した零戦10数機、ほかに夜間戦闘機「月光」「彗星」などが配備されていた。ただし、整備や修理の関係もあり、作戦に使用可能な可動機は、保有機数よりもずっと少ない。
三四三空の紫電改
そのうち、三五二空の搭乗員は、昼間も黒眼鏡をかけ、夜間戦闘に特化した訓練と、米軍の九州上陸に備えた爆撃訓練に明け暮れていたので、除外していい。残るは三四三空だが、なぜ上空哨戒もしていなかったのか。
大村基地の三四三空で、司令に次ぐ実質ナンバー2の飛行長(本来、司令に次ぐ立場の副長は愛媛県松山基地にいた)だった志賀淑雄少佐(故人・1914年-2005年)は、筆者のインタビューに、
「この頃は燃料が足りず、飛行作業は一日おきにしかできませんでした。昭和20年6月頃にはすでに、飛行機や部品、搭乗員の補充もままならなくなり、燃料も不足、あってもオクタン価の低いもので、そのせいで、同じ『紫電改』であっても実質的にかなり性能が低下し、実力を発揮できなくなってきていました。
しかも前日の8月8日、九州北部に、敵大型爆撃機と戦闘機、200機以上による大規模な空襲があり、三四三空は可動機全力、24機で邀撃に発進したんですが、有明湾から北九州にかけての激戦で9機を失ってしまった。残る飛行機も被弾したものが多く、整備を要する状態だったので、9日は『敵機が来襲しても出撃しない』ということとし、私が搭乗員全員を引率して、飛行場裏山に山登りに行くことになったんです」
と語っている。9日の飛行作業止めは、燃料不足と機材の損耗から、源田司令が決めたことだった。志賀さんは、続ける。
左、三四三空司令・源田實大佐。右、飛行長・志賀淑雄少佐
「山の中腹に差しかかった頃、誰かが『飛行機!』と叫び、続いて『落下傘!』の声が聞こえました。長崎の方向に目をやると、青空に白い落下傘が見えたような気がして、間もなくピカッと。一瞬、顔がポッと熱くなる気がしましたよ。
『あっ! あれは広島に落とされたやつと一緒だよ。すぐに下山!』
下山してもどうにもならんな、これは大変なことになったぞ、と思いながら、隊に戻りました。繰り言になりますが、もし燃料が潤沢にあって、三機でも四機でも、上空哨戒の戦闘機を発進させていたら……と悔やまれます」

2、3日するとバタバタ死んでいくんです

じつは、これまでの戦闘で戦力を消耗していた三四三空は、京都府福知山基地(戦闘第四〇二飛行隊)と兵庫県姫路基地(戦闘第四〇三飛行隊)で訓練中の、新たな「紫電改」部隊である筑波海軍航空隊(筑波空)と近いうちに交代、第一線部隊の座を明け渡す予定だった。ちょうど8月9日、筑波空飛行長・進藤三郎少佐(故人・1911年-2001年)が、その打ち合わせのため「紫電改」を操縦し、福知山基地から大村基地に飛んでいる。
「8月6日、広島に新型爆弾が投下され――そのときは原子爆弾とはわかりませんが――全滅した、という情報が入った。私の家は広島ですから、これは、うちも無事では済まんだろうと思いました。
筑波空はいずれ三四三空と交代する予定でしたから、三四三空から搭乗員をもらい受ける相談のため、9日の朝早くに大村基地へ飛んだんです。ところが、この日は飛行長の志賀君が不在(山登りの引率)で、話をする相手がおらん。それで福知山にとんぼ返りしたんですが、そのとき、広島上空を飛んでみた。
瀬戸内海上空から望むと、緑の山々や青い海の風景が広がるなかで、広島だけが白黒写真みたいに色がなくなってるんです。これはやられたなあ、うちも駄目だ。両親が生きているとも思えん。そう思って、家の上空を旋回して状況を確認する気にもなれなかった。私が福知山に向かって大村基地を離陸してほどなく、長崎に2発めの新型爆弾が投下されたことを知りました」
このとき、小倉上空に飛来したB-29の情報は、大村基地に着陸した進藤さんには伝えられていない。B-29に対し、築城基地から零戦が発進したことを、大村基地で把握して対応にあたった形跡も見当たらない。8月6日、広島に原子爆弾が投下されたばかりだというのに、情報共有の不備というべきか、せっかく飛んでいる戦闘機に敵機の存在を知らせることすら、当時の陸海軍はしなかった。
進藤さんは、昭和15(1940)年9月13日、中国大陸重慶上空での零戦のデビュー戦、真珠湾攻撃第二次発進部隊で零戦隊を指揮、さらに昭和17(1942)年から昭和18(1943)年にかけ、激戦地ラバウルで激戦をくぐり抜けたベテランの戦闘機乗りで、空の戦いを熟知した指揮官である。もし、上空にB-29がいることを進藤さんが知って、そちらに機首を向けていれば、撃墜できないまでも敵機の針路を変えさせ、爆撃を諦めさせることはできたかもしれない。
進藤三郎少佐
この日の三四三空の隊員たちの回想は、
「とにかく燃料がないから、敵機の邀撃も一日おきと決められ、休みの日は、たとえ空襲があっても飛ばない。8月9日も休養日でした。搭乗員全員がトラックに乗って、いまでいうハイキングですね、基地の裏山に登ることになりました。途中、店屋があって、アイスキャンデーを食べに入ったところでドカン、とものすごい衝撃があり、店のガラスが割れた。驚いて外に出てみると、長崎の方向、青空に白いキノコ雲がもくもくと上がっているのが見えました」(戦闘七〇一飛行隊・中村佳雄上飛曹[故人・1923年-2012年])
中村佳雄上飛曹
「8月9日、燃料不足でその日は飛行止めということになり、飛行隊ごとにトラックに分乗して大村と長崎の中間あたりの小高い山に登りました。ここらでメシでも食うか、と話しているところへ、上空を米軍の大型爆撃機が二機、通り過ぎていった。と、見てる間に、ものすごい爆発が起きた。そのときは原子爆弾とは知らなんだが、これは休養どころではないわいと、すぐに山を下りました」(戦闘三〇一飛行隊・宮崎勇飛曹長[故人・1919年-2012年])
と、乗ったトラックによって若干の差はあるものの、概ね一致している。
宮崎勇飛曹長
宮崎さんは、長崎の原爆被爆者の救護活動にもあたった。
「夕方になると、われわれが士官宿舎に使っていた健民道場とよばれる建物に、負傷した女学生たちが運ばれてきました。この女学生たちが、外見からはたいした怪我をしてないように見えたのに、2、3日するとバタバタ死んでいくんです。いま思えば放射能の被曝のせいなんでしょうが……。痛ましい思いで遺体を収容したのを憶えています」
そして、8月15日。戦争終結を告げる天皇玉音放送は、大村基地にいる三四三空搭乗員の総員が、飛行場に整列して聴いた。
終戦を知らされて、人間って不思議なもので、みんなホッとした顔をしていましたね。これで家に帰れる、と。これからどうなるか、先行きの見えない不安はありましたが」
と、被爆直後の長崎上空を飛んだ佐々木原正夫さんは回想している。
その後の三四三空は、連合軍による天皇の処刑をふくむ最悪の事態にそなえて、皇統を絶やさず国体を護持するため、皇族の子弟の一人をかくまい、養育する、という「皇統護持」の秘密作戦に従事するなど、語るべきドラマはあるが、それについては稿を改めてお伝えしたい。
ただ一つ、被爆者救護にあたった宮崎勇さんが、その後も長く、放射能の被曝によると思われる白血球異常による体調不良に苛まれていたことは、付記しておかねばならない。
――長崎市から目と鼻の先の大村基地に、日本有数の実力を誇る戦闘機隊が配備されていながら、たった3日前の広島の教訓を生かすことなく、みすみす2発めの原爆投下を許した日本陸海軍の危機管理については、これまであまり顧みられることがなかったように思える。
ポツダム宣言の受諾が遅れた」
「2発めの原爆よりも、敵の本土上陸の足がかりとなる、沖縄で完成間近の米軍沖縄中(現・嘉手納)飛行場の脅威に気をとられていた」
など、さまざまな理由が断片的に伝わっているが、当事者がことごとく鬼籍に入ったいま、これらをさらに掘り下げて検証することはむずかしい。政府、陸海軍上層部、現場部隊、民間の防衛態勢……さまざまな要素が複雑に絡んで一筋縄ではいかない問題でもある。
だが、「過ちを繰り返さない」ためにも、もっと目を向けられてもよさそうなテーマであろう。