生島治郎さんの手紙 大沢在昌

生島治郎さんの手紙 大沢在昌

プロムナード
2019/7/8 14:00
現在では考えられないことだが、50年前は新聞社の発行する年鑑に小説家の住所が記載されていた。
レイモンド・チャンドラーの作品との出会いをきっかけにハードボイルド小説にのめりこんでいた私が次に惹(ひ)きつけられたのが生島治郎さんの作品群だった。「追いつめる」で直木賞を受賞した、日本のハードボイルド作家の草分けともいえる人だ。私は夢中になり、中学3年生のときに手紙を書いた。
ファンレターではあるが、日本でハードボイルド小説を書く上での質問状も兼ねていた。
送ったものの、返事をもらえるとは思っていなかった。
ところが2週間後、便せん8枚にも及ぶ、ていねいな回答の手紙が届いた。
これほど嬉(うれ)しかった手紙はない。ハードボイルド小説家になりたいという"夢"は、この手紙によって"運命"へとかわった。自分は生島治郎さんのあとにつづく存在になるのだ、と根拠もないのに思いこんだ。
それから8年後、生島さんが選考委員をつとめる新人賞を受賞し、食事会でご本人に会った。
ダンディでニヒルなのは想像通りだったが、意外なことに酒を飲まなかった。
「先生」
と私が呼ぶと、
「もう同業者なんだ。先生はやめろ」
といわれ、胸がいっぱいになった。そして中学生のときに手紙をいただいたことを告げた。
「ありえんな。俺はファンレターに返事は書かない」
にべもなくいわれ、二の句が告げなかった。
2冊目の本を上梓(じょうし)したときに勇を鼓して、直接お渡ししたいと電話をかけた。すると飯でも食うかと、銀座の鮨(すし)屋と文壇バーに連れていってくれた。そのとき翻訳ミステリの話になり、
「若いのによく読んでいるな」
と感心された。
それから少しして、生島さんから電話があり、麻雀はできるかと訊かれた。できると答えると、赤坂の「乃なみ」という旅館にこい、といわれた。
いってみると吉行淳之介さん黒鉄ヒロシさん、生島さんというメンツで私は卒倒しそうだった。だが、生島さんにいわれたこともあり、生意気にも「吉行さん」と呼んだ。
それをきっかけに月に一度くらい卓を囲むようになった。だいぶ打ち解けたある日、生島さんからいただいた手紙を持参した。生島さんはあ然とした。
「俺の字だ」と驚き、書いたことをまったく覚えていなかった。そして「返せ」といわれた。お前はもう小説家になったのだから、必要ない筈(はず)だ、と。
冗談じゃありません、これは僕の宝物です。何があっても返しません、と私はいった。返せ返さないのやりとりはお約束になり、どんどん二人の距離が縮まっていくようで嬉しかった。
直木賞を受賞した数日後、生島邸に遊びにいくと、
「おい、いいもんがあったぞ」
生島さんがにやにやしながらきたならしい封筒をだしてきた。
何と中学生の私が送った手紙だった。
生島さんには結婚式の仲人をお願いし、亡くなったときには葬儀委員長をつとめた。中学生の書いた手紙は棺の中におさめ、いっしょに旅立っていただいた。生島さんからの手紙は、今も私の机の中にある。終生の宝物だ。
(作家)