【3つの「謎」百舌鳥・古市古墳群】(上)王陵、なぜ奈良から大阪に
【3つの「謎」百舌鳥・古市古墳群】(上)王陵、なぜ奈良から大阪に
百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群の世界文化遺産登録が、正式に決まった。大阪初の世界遺産で、日本の古墳文化が世界に誇るものと認められた意義は大きい。一方で、両古墳群にはいまだに解きがたい「謎」がある。最新の考古学や古代史の研究成果をもとにこの謎に迫る。(客員論説委員 渡部裕明)
◇
大阪・河内地方の中部、藤井寺市。同市役所庁舎の北側の窓からのぞくと、緑に覆われた小さな森が目に入る。津堂城山(つどうしろやま)古墳だ。墳丘長が210メートルに達する前方後円墳で、周囲には豪壮な二重の濠(ほり)が巡る。後円部からは明治末、「王者の棺(ひつぎ)」と呼ばれる長持形の石棺(せっかん)や銅鏡、鉄剣なども発見された。
この古墳が特別な存在とされるのは、百舌鳥・古市古墳群(大阪府)で最初に築かれた200メートルを超える巨大古墳だからだ。それまでヤマト政権の大王(天皇)級の墓はいずれも奈良盆地にあった。だが、大和川を西へ下ったかのように、初めて外に出たのである。
「時期は4世紀後半。これを機に大王陵が百舌鳥・古市に引っ越してきた点で、津堂城山古墳の持つ意味は大きい」
古市古墳群の発掘調査を長く見守ってきた、天野末喜(すえき)・奈良大非常勤講師(考古学)は言う。
津堂城山古墳からそれほど時をおかず、古市に仲姫命(なかつひめのみこと)陵古墳(仲津山古墳、墳丘長290メートル)が、百舌鳥には全国第3位の履中(りちゅう)天皇陵古墳(同365メートル)が姿を現す。そして大型化は5世紀半ば、頂点に達した。同486メートルと全国で最大の仁徳天皇陵古墳(大山〈だいせん〉古墳)である。
ヤマト政権の王陵(おうりょう)がなぜ大阪へ移ったのか。「奈良に用地がなくなった」「大阪に造る理由が生じた」「権力者の交代があった」-など数々の見解がある。戦後の一時期には、大阪平野を本拠とした新政権の勃興を説く「河内王朝論」が脚光を集めた。
だが同じような前方後円墳が造り続けられること、また歴代の都は奈良盆地に置かれるケースが多いことなどから、王朝交代説は成り立ちがたい。むしろ、この時代の政治情勢が大阪を選ばせた、と考えられるようになっている。
つまり、4世紀後半から5世紀にかけ、倭(わ)(日本)にとって、朝鮮半島や中国との外交が重要な課題となったことが大きい。当時の日本列島は水田開発が進み、人口も増え続ける「高度成長期」。支えていたのは、鉄製の農具や工具の普及だった。
鉄器はそれまでの石器に比べ、作業効率が飛躍的に向上する。ところが鉄は国内で産出せず、朝鮮半島から輸入するほかなかった。鉄を安定的に入手するためヤマト政権は朝鮮半島まで出向き、かの国々との複雑な抗争に巻き込まれていったのである。
海外交渉の拠点となったのが、大阪湾沿岸だった。この地の重要性は急速に高まり、大陸への水運を担う豪族の地位も向上した。大阪湾岸の巨大古墳は、この地を行き来する人々に、政権の力の大きさを見せつけるモニュメントの役割も果たしたのだった。