「吉田所長から深刻な声で電話」 細野証言の詳報

「吉田所長から深刻な声で電話」 細野証言の詳報

2014年6月2日08時48分

http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20140601002402_commL.jpgインタビューに答える細野豪志氏=2014年5月27日、東京都千代田区永田町2丁目、宮崎知己撮影

http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20140601002433_commL.jpgインタビューに答える細野豪志氏=2014年5月27日、東京都千代田区永田町2丁目、木村英昭撮影

http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20140601002396_commL.jpg福島第一原子力発電所の免震重要棟にある緊急時対策本部室で、職員を激励する細野豪志・原発担当相=2011年11月12日午後0時18分、福島県大熊町、相場郁朗撮影
 東京電力福島第一原発の事故に首相補佐官として対処し、吉田昌郎(まさお)所長との連絡役を務めた細野豪志氏が朝日新聞のインタビューに応じた。
 細野氏は事故から3年が経過し「記憶の限界に来ている。そろそろ話さなければいけない」と考えていた矢先に「吉田調書」報道が出て、証言を決心したという。
 細野氏との一問一答は次の通り。(肩書は原則当時)
■吉田さんへの接触
――首相補佐官として官邸に入って、一番最初に吉田さんとやりとりを始めたときの記憶は。

細野「思いだそうとしているんですが、いつかは正確には記憶が呼び起こせないんです。3月12日がかなり大変でしたもんね、あのときは私も連絡はとってないです。12日は武藤さん……。武黒さん、川俣さんか、が官邸に来ていた。基本的にはリエゾンで来てくれた2人を通じて情報を取るのが官邸のスタンス。12日夜から地下に入って、総理が朝、ヘリでいく前後を含めて、2人を通じて色んな情報を取っていました。ただ、非常に情報が入りにくい状況で、象徴的だったのは12日3時36分の水素爆発。事前に予測できなかっただけでなくて、それがあったという事象も含め官邸には報告もなかった。そこでかなり、情報の流通の遅さというか、なかなかこれは情報が入っていないと感じるようになったんです。その後のいずれかのタイミングで一度、電話で話しています。それは、総理からの指示もあったので、吉田所長と話をさせてくれないかと。その前提で、総理が吉田所長と会ったので『あの人は信頼できる』と。本当に必要な時は現場への確認が必要だと。それで、そこは一応つないでおいた方がいいかなという思いもあったので、12日から13日、どのタイミングか分からないが、連絡した。私の携帯の番号を知らせ、総理にも連絡が取れると、いざというときには、ということもあったので連絡をしたんだと思う」

(武藤=武藤栄・東電原子力担当副社長、武黒=武黒一郎・東電フェロー、川俣=川俣晋・東電原子力品質・安全部長、リエゾン=連絡員、地下=内閣危機管理センター、3時36分=午後3時36分、総理=菅直人首相)
――1号機の爆発がきっかけですか?
細野「そうですね。情報がなかなか入らないということでいうならば、この1号機が一番典型でしたね」
――総理からどう言われましたか。
細野「正確なやりとりは記憶がないです。ただ、現場が大変だっていうのは本当によく分かっていたので、直接電話は基本的にしないと。特に武黒さんが原子力の専門家でもあったので、武黒さんを通じて情報を確認するのが基本でした」
■電話が鳴った
――爆発があり、情報を取りたいという中で、吉田さんへの接触が始まるという流れですか。

細野「15日以降は、私は東電に行ったのでテレビ会議で常にリアルタイムで連絡が取れることになっていました。その前は、ちょっと記憶が定かじゃないですが、2回電話しているかも。何かで、どうしても聞かないといけないことがあって、連絡をしたことがあったことが1回、もしくは2回あった。いずれも私が自分でかけているが、逆に初めて電話があったのは14日の、ここが私もね……。2号機に水が入らなくなっている時ですね。あの時にガス欠だったことがありましたね。あの前に、吉田さんがそれを調書の中で述べているか知らないが、ここは正確に記憶してるので、それはここですね。炉心損傷が始まったのが14日の8時ごろですね。その時に電話があったんですね。そこは吉田所長がかなり深刻な声で電話をしてきていて、これはちょっと本当に厳しいかもしれないという趣旨の発言があって、私もそこは本当に最も深刻だと思った場面の一つです」

テレビ会議=東電本店と福島第一原発福島第二原発柏崎刈羽原発と福島オフサイトセンターを結ぶ映像会議システム、ガス欠=消防車の燃料切れ、8時=午後8時)
――吉田さんも「ここで何回目かに死んだと、ここで本当に死んだ」と聴取に答えています。

細野「私としては申し上げられることは、ちょっと手を探ってくれと。何かバックアップできることがあれば何でも言ってくれ、と。長く電話でしゃべっているような状況ではなかったので、何でもやるからと言って切った。その時に官邸で、なぜそうなったかそこも記憶は定かでないが、総理と2人になって、吉田所長は非常に気力も体力がある人だし、リーダーシップのある人だけど、その人がそう言っているということはものすごく深刻だと思うと、吉田所長の言葉をそのまま伝えたんです。執務室で。菅さんはだいたい、何事もすぐ反応する人なんですが、しばらく総理が黙っちゃったんですね。沈黙があり、極めて、最も深刻な場面の一つだったと思います。そうしましたら、たぶん10分後くらい、吉田さんから電話があって、大丈夫だと、ガス欠だということが分かり、申し訳ないという話。がんばれるという話でした」

(執務室=首相執務室)
――最初の電話は吉田さんからで、2度目も吉田さんからですか。
細野「かかってきました」
■ピンチな状況
――ここの場面、少し詳しくお聞きしたいんですが、最初の電話は、まず夕方に燃料が切れて、かなりピンチな状況が発覚したと。

細野「じゃなくて。水が途中までは入っていたわけですね。原発の中の注水ラインが、どういう経緯だったかな……。消火系のラインから入っていた。通常入れないラインで、注水のラインではないんですが、消火のラインが入らなくなり、外部からのラインに切り替えるのでやろうとして、それでまあもう万全を期していたはずなんですが入らなかった。なぜかというとガス欠だったと。後から聞いた話では、入れる練習をして、ポンプを何度も動かしていて、ガスを使い切っていたと後から聞きましたけど」

(ライン=原子炉につながる管で何種類もある)
――吉田さんは調書ではガス欠があり、かなりピンチな状況で細野さんに電話をかけたと説明しています。違和感はないですか。
細野「ない。まさにそういう現場だった」
――ガス欠になったという状況の後に1回目、しばらくたって2回目という流れでいいですか?
細野「そう」
――吉田さんから電話が来たとき、どこにいましたか。
細野「電話を受けたときは、応接室だったのだと思いますね」
(応接室=首相応接室)
――そのまま応接室で携帯を受けたのですか。
細野「外したんですね」
――深刻な声だったのですか。
細野「皆が応接室にいたわけでなく、それぞれいろんな情報を取ったりして対応していたので、出入りが当時はあったんですが、そこで落ち着いて電話できる雰囲気にない。いろんな人がいろんな話をしているので。みんなだいたい席をはずして電話していたので」
――廊下に出たわけですね。
細野「いや、そこは記憶してないんですが。おそらく、いろんな部屋が5階にはあるから。まあそこを電話に使っていたので、そのあたりにいたと思うんですが、補佐官室には行ってない」
(5階=首相官邸5階)
――吉田さんは携帯に登録していたんですか。

細野「今でも残ってるのかな。携帯を変えましたけどね。ドコモが、つながらないんですよ。『吉田1F所長』。かかってきたっていうことの重さを感じてましたね。その時、かかってきたのは初めて。事態が14日に、より深刻度が増していたのは分かっていて、13日が比較的、15日までの中でいうと新しい動きがなかった。かろうじてそれほどの量ではないけれど水が入っていて、爆発もなかったんですよね。だから、何とかその間に、例えば水素を抜く方法をかなり東電が必死に探っていましたし、官邸にも東芝の専門家が来て、保安院原子力安全委員長なんかも来て、なんとか方法がないか、私は専門家じゃないので、とにかく徹底的に考えろということでやっていったんですね。14日になり、いよいよ2号機が危ないということになって、極めて深刻な状況になってきているというのは分かっていたんですが。私もずっと寝てない、14日まで。13日の記憶がほとんどない。起きていたんですが、覚えてないです。起きてはいたんだけど新しい事象がなかったからかも。13日は静か。12日は本当に大変で、14日も。ですから、そういう中で所長から電話がある重たさっていうのはものすごく分かっていました」

(1F=福島第一原子力発電所保安院原子力安全・保安院原子力安全委員長=班目春樹・原子力安全委員会委員長)
――「吉田です」とかかってきたのですか。

細野「相当の人が免震重要棟にはいたから、どうしてもザワザワとはするんですよね。吉田所長はまあ落ち着いておられましたけどね、ちょっと声がトーンが高いじゃないですか。ただ、非常に落ち着いておられたので、狼狽(ろうばい)した感じはしませんでした。割とゆっくり話されていて」

(免震重要棟=吉田所長が指揮を執る緊急時対策室のある堅牢な建物)
――吉田さんも調書では、細野さんのことを「常に冷静でした」と評されていました。
細野「うーん」
■「頑張れる」
――電話の内容を再現してもらえますか。
細野「まあ『吉田です』という話はあったと思います。ただ、お互い電話番号を知っているのはあったので、『細野さんですか』というのはなくて、そのまま用件に入ったと思います」
――余計なことはなく、ずばっと?

細野「ですね。『2号機に水が入らない、原因が分からない』と。原因が分からないけどポンプが作動しなくて水が入らない。2号機は極めて深刻だと。2号機の状態はですね。それは私も分かっていたので、その後の正確な表現は思い出せませんけど、受け止め方としては、厳しい状況だが、ここまで自分たちは頑張ってきたけれども、駄目かもしれないというニュアンスと私は受け止めた。わざわざ吉田所長が私に電話してきたことからしてもね。つまり、その時まで、厳しいが現場で作業できるという環境だったわけじゃないですか。そこで作業できないような状況になる可能性を所長は示唆したと、私はそう取りました。つまり完全に現場から撤退しなくてはならないと。たぶん吉田所長はその後、残っておられるし、撤退はしないという考え方だったと思いますが、まわりの作業員を含めて物理的に不可能になる状況を感じていたのだと思います。つまり放射線量が一定以上になると作業できませんよね。なので、ちょっと先の話で申し上げると、その時のリスクをまあ、たぶん東電も相当、会社として自覚していて、吉田所長もわかっていた。しかし、水が入ることでまだ頑張れるという吉田所長の判断だった。ただ東電はその認識がまだ残っていて、そのあとの電話で吉田所長がまだ頑張れると。清水社長はじめ、会社の方から撤退論の話が出た時、そこにニュアンスの違いがあるなあと感じた」

(ポンプ=消防車のポンプ、清水社長=清水正孝・東電社長)
――細野さんは直接、吉田さんから頑張れるという言葉を聞いたんですね。
細野「そうですね。それが結局、撤退すべきでないという総理の発言につながった。私も強く言いましたし」
(総理の発言=3月15日早朝に菅首相が東電本店に乗り込み社長らを前におこなった発言)
――どういう言い方でしたか?

細野「1回目は菅総理にすぐ報告して。その電話があったときですね。1回目の電話、かかっているとき、記憶が定かではないんですが、たまたま総理と2人でいたかも。定かじゃない。菅総理に報告し、その後、吉田所長から2回目の電話まで総理と2人でいたんです。そのことはよく覚えているんです。1回目の電話をどう受けたのか記憶は定かではないんですが、10分後くらいの電話も総理に正確に伝えた。吉田所長は頑張れると言っていると。水もなんとか入ったし、現場の士気は衰えていないと言う話をしているんですよね」

――3回目以降ですよね?
細野「ではない。2回目」
■総理の沈黙
――1回目と2回目の間は空いてるということですか。
細野「そう、注水ラインから海水が入ったのが19時54分。この後に電話が入っていると思う」
――吉田調書でいうと、まさにガス欠になった時、自分は死ぬかと思ったと、席を立って、東電と細野さんの両方に電話をかけたと。そのときに『チャイナシンドロームになるかもしれない』という言葉を使ったと聴取の方では言っています。
細野「その時の電話だろう」
チャイナシンドローム原発事故を主題にした米映画の題名)
――水が入ったのは時系列的に言うと午後8時前なので、時間感覚からいうと。
細野「10分じゃないのかな。2回目の電話を受けているのは間違いない」
――「水が入りましたと」いう報告だったのですね。

細野「そうだ。私の方で確認したんですが、ようするに、がんばってやっていただけますねと、ここを頑張っていただかないといけないのでどうですか、みたいなことを聞いたんです。そうしたら、大丈夫だと。元の吉田さんに戻っていたというか、限られた時間しかしゃべっていませんけど、私のイメージする吉田所長に戻っていたので、大丈夫ではないかと」

――1回目の電話の後の総理の「沈黙」はどのぐらいの長さですか。

細野「いやけっこう長かったですね。菅さんっていうのは沈黙っていうのはほとんどない人ですからね。私は、記憶の中で言うと、まあ、けっこう長いおつきあいになりますし、サシで話した機会はものすごい数ありますけど、あんまり記憶はありませんね。まあ何分か。基本的にその次の電話がかかってきて、ほとんど対応するという雰囲気ではなかったので、私はその期間は10分ぐらいだったと思うんですよね」

(サシ=1対1)
――そうすると、具体的な指示は菅さんから出なかったんですね。1回目のときには。

細野「そこで総理にすぐ指示を出すことを求めるのはちょっと酷ですよね。私の中ではあの時はすぐにはちょっと行動を起こせなかったんですけど、やっぱりそういうことが起こったときの本当に想定をしておかないと。どんどんどんどん状況が悪くなっているので、というのは私の中ですごくありましたね。なんで、まあその数日後に近藤委員長にお願いしてシミュレーションするんですけど」

(近藤委員長=近藤駿介原子力委員会委員長)
――吉田さんの1回目の電話の内容を伝えたのは菅さんだけですか。官房長官経産大臣には。

細野「その間が短かったので、つまりその、入って、まだやれるというまでの時間が短かったので、そっちの情報を伝えた。大事なのは過去がどうだったのかというトレースよりは、それはある時期から重要になってくるのだが、どうしてもいろいろ問題があるとそっちに引っ張られるんです。こういう問題があるからどうだったんだとか、どこに責任があるんだとか、その場面にはほとんど意味がなくて、次、何ができるかとか、何をするべきか、ということの方が重要なので、あまり過去の経緯を説明することは、私はしないようにしていたんです。そのことで議論がそこに集中してしまうことが何回かあったので。むしろ、水が入ったので現場は頑張れると言っているということを、報告したと思います。それはたぶん枝野さんにも言ってるし、海江田大臣にも言ってますね。

(トレース=跡をなぞること、枝野=枝野幸男官房長官、海江田=海江田万里経済産業大臣
■東電とのズレ
――東電本店の受け止めは細野さんとは異なっていたと感じたのは。

細野「やっぱり東電の側が必死に、あれですよね、官邸の側に伝えようとしていた姿勢ですね、14日の夜中ですね。まあリエゾンにも武黒さんいるわけだし、川俣さんいるわけだし、通常ならそこで連絡を取ればいいですが、まあ清水社長が直接、こう、話そうとしていると。で、もうすでにちょっと電話で、撤退うんぬんという話が何人かに伝わっていたので。まあ、そこの受け止め方として、仮にそう話したとすると、吉田所長とは違うと。やっぱりいきなり聞いて総理としてどういう判断ができるかというのがあったので、私はそのとき、吉田所長の判断を尊重するべきだと思っていたので、総理にそのことは説明しました。『総理としてきちっと言わなければいけないんじゃないか』ということはやりとりしていたと思います。ただちょっと私もよく分からないのは、清水社長が来たときに、総理が、撤退はしないということと、東電に本部を作るということ、政府としてはそこに行く、私も行けという話、常駐しろという話は事前に聞いてなかったんだけど。撤退ない、東電に行く、私が行くというその三つが清水社長の前で出た。そこの判断までは私はコミットしていない」

(常駐=細野豪志首相補佐官は3月15日朝から東電本店に入り込んだ)
――吉田さんから『がんばります』という言葉を直接聞いていた者として、総理に吉田さんの判断を尊重するべきだと明確に伝えた。それは間違いないんですね。
細野「その通りです」
――総理からはどういう返答がありましたか。
細野「まあ、正確には覚えていないが、あの人はすごくエネルギーはある人ですから、菅さんというのは。その通りだと、ここは踏ん張るところであるという、そんな気力にみなぎっていました」
――これはまだ日付が変わらない、14日のことですか。
細野「そうですね、14日から15日未明ですね、この間ですね、まあ昼夜というのはほとんど意識していなかったので、当時は。深刻なやりとりになったのは、日付が変わったあとぐらいだと思います」
――細野さんが『吉田所長の判断を尊重すべきだ』という強い意思を伝えたのは15日に入ってからですか。
細野「それは、東電側からのいろいろなアプローチがあったときですね。1回伝えてはいますけど、東電側のニュアンスと違うというふうに気がついたのは東電側がいろいろなアプローチをしてきた後なんで、それに対しては、所長を尊重するべきだと」
(アプローチ=接近)
――細野さん自身は東電からの意向をどういう言葉で、だれから聞いたのですか。
細野「私は直接電話を受けなかったんです。そのニュアンスでくるっていうのは、海江田や枝野は直接聞いていたので、総理に電話をつなぎたいということもあったので、私にも電話あったんですが。というか、取り次ぎが何度もあったんですが、出ませんでした。すでに大臣と官房長官に電話してきて、ある程度、あり得ないという話はしてますよね。取り次ぎで私に電話に出てくれというのはあったんですけど、ええ」
――細野さんは、海江田さんや枝野さんから、間接的に東電が撤退したいという意向はきいていたということですね。同時に、細野さんとしては吉田さんからも強い意思を直接聞いていたし、総理への進言を直接明確に伝えたということですね。

細野「そうです。きちっと総理には判断してもらう必要があったので、いろんな人が聞いて、中途半端に伝えてもしょうがないなと。伝わってくるメッセージは分かっていたので、あえて私が取り次ぐ必要はないと思った。もちろん総理に判断してもらった方がよいと思ったんで、ただ最終的には社長がこちらに来るということだったんです」

■社長を呼ぶ
――社長を呼べと。
細野「ああ総理が呼んだんですよね」
――その時にはもう日付が変わっていて、菅さんは寝ていました。ちょっとやばい状況だったので福山さんが「菅さんを起こせ」と言うので、応接室に来てもらった。そのときに「こういう状況になっている」と言ったら、菅さんが怒り狂って。

細野「そうだ。思い出した。その前に、そうだ。思い出しました、総理が起きてきて、海江田大臣とか枝野官房長官とか、松本大臣もいたのか、それで藤井副長官が年齢のこともあったので官邸にいなかったが、藤井副長官も呼び戻して、私も入って、秘書官も入って、そこで撤退はあり得ないと、いうのを会議で決めた。そうでした。その上で総理がじゃあ今から社長を呼べという話になってきたんです」

――そこはかなり緊迫したやりとりがあったという。ほかの人の証言によると、撤退しないという意思が周知できたと聞きました。

細野「私も深刻な状況だというのは分かっていたので、吉田所長の意見はこうで、みなさん違うと言ったが、一方で、現場に残っている人の状況を考えると相当深刻なので、そこを例えば補佐官として『そういうふうにしてもらわなければ困る』と軽々しく言える状況じゃないとも思っていました。さっき、電話に出なかった理由は言いましたが、自分の中で、私がそれを判断できる人間じゃないし、そこまで強く言える自信がなかったっていう面はあったと思います」

――たしかに現場にいる人を考えると。
細野「いろんなリスクがあったのは間違いないので」

(聞き手:宮崎知己、木村英昭、堀内京子)