もんじゅ廃炉に「甘さがあった」

もんじゅ廃炉に「甘さがあった」 動燃出身の瀬戸口さん、積年の思い語る

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「増殖炉は日本に不可欠な技術」と志を抱いて動燃に入った瀬戸口啓一さん。その思いは今も変わらない(蕎麦谷里志撮影)
 “夢の原子炉”といわれた高速増殖炉原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)は、多くの人の夢も乗せていた。日本原子力研究開発機構高速炉研究開発部門アドバイザー、瀬戸口啓一さん(61)もその1人だ。「高速増殖炉は日本に欠かせない技術」と高い志をもって36年前、旧動力炉・核燃料開発事業団(動燃)の門をたたいた。今回の事態を引き起こした組織の甘さを認めつつも、真面目に打ち込んできただけに、誤解があるとの思いもある。積年の思いが交錯した。(蕎麦谷里志)
 「高速増殖炉って、なんだ…」。大学の工学部で学んでいた瀬戸口さんは、当時、耳にした聞き慣れない言葉に興味を持った。調べたところ画期的な仕組みに感激し、一気に引き込まれた。

 《使った以上の燃料を生み出す》

 資源のない日本に不可欠な技術だと感じた。単にウランを燃やすだけなら、天然ガスや石炭を燃やす発電と大差ない。原発の本当の魅力は燃料を増殖させられることにあると確信した。「僕らの世代はオイルショックも経験しているから、資源の重要性は身にしみている。就職するならここ(動燃)しかない」と思った。「増殖炉は日本に不可欠な技術」と志を抱いて動燃に入った瀬戸口啓一さん。その思いは今も変わらない(蕎麦谷里志撮影)


最先端を実感
 昭和55年に念願かなって動燃に入る。配属も希望通りの高速実験炉「常陽」(茨城県)。渡された白いヘルメットに「高速実験炉」とあった。科学技術の最先端にいると実感した。普通の人が見ればただの作業用ヘルメットだが、「かぶって外を歩きたい」と思うくらい、格好良いと感じた。
 平成2年には、建設中の「もんじゅ」(福井県)に異動となる。高速炉は、「実験炉」「原型炉」「実証炉」「実用炉」の順番で開発される。実験炉の常陽から原型炉のもんじゅへ。自分も同じようにステップアップしていくと思った。実証炉からは民間の電力会社が運営する。「最後は自分も民間に転籍かな」。そんなことも考えた。

初臨界に歓喜
 歓喜の瞬間は6年に訪れた。もんじゅの初臨界。臨界は核分裂反応が連続する状態で、稼働したことを意味する。忘れもしない瞬間は中央制御室で迎えた。「ただいま、もんじゅは臨界に達しました」。当直長のアナウンスが流れ、拍手と歓声が上がった。涙を浮かべる人もいた。夢が動き出した。

 しかし、1年8カ月後、事態は暗転する。ナトリウム漏洩(ろうえい)事故が発生。このとき動燃が公表したビデオに編集が発覚し、「情報隠(いん)蔽(ぺい)」と集中砲火を浴びた。

 事故から21年。6年前に3カ月だけ再稼働したものの、それ以外は止まったままだ。事故を起こしたのは事実だが、みんなまじめに取り組んでいただけに、誤解もあるという思いは今も強い。「なんとか再び動かしたい」。地元住民との対話活動などを懸命に続けてきたが、再び運転することは許されなかった。

 信頼を取り戻せなかった理由を聞いた。「難しい…いろいろな要因はあるけど、開発段階の原子炉だという甘さかな」。天を仰いでつぶやいた。開発段階の原子炉にトラブルはつきものだ。しかし、そこに甘えた組織を、国も国民も許さなかった。