【昔の写真】まだ人が住んでいた頃の軍艦島【当時の生活】

【昔の写真】まだ人が住んでいた頃の軍艦島【当時の生活】

軍艦島の卒業生が島に上陸して同窓会を開きました。ジェームスボンド(007)の映画の舞台としても注目され、世界遺産に登録されることが期待される軍艦島は、近年廃墟マニアの間でブームになっています。廃墟になる前は世界最大の人口密度をほこる活気にあふれる街でした。アーカイブス動画クルーズツアー旅行観光
更新日: 2016年07月10日

軍艦島とは?
端島(はしま)とは、長崎県長崎市(旧高島町)にある島である。かつては海底炭鉱によって栄え東京以上の人口密度を有していたが、閉山とともに島民が島を離れたため、現在は無人島である。軍艦島(ぐんかんじま)の通称で知られている。
今日は、軍艦島に暮らした人たちの生活ぶりを撮った写真を中心に紹介しましょう。おばあさんとお孫さんでしょうね。この写真が、昭和40年ごろに撮られたとして、抱かれている子供は今45歳くらいになっているでしょう。おいしそうなスイカが並んでいますが、島には市場もあり、対岸の野母半島の人たちが野菜、果物などを運んで来て店を開いていました。
炭鉱が操業していたころ軍艦島の近くを船で通ると、子供たちのワーッという歓声が聞こえてきたそうです。昭和35年ごろの島の最盛期には、小学校に500人もの児童がいました。
海底の坑道での仕事を終わってから風呂に入ってサッパリし、商店街をぶらついているところでしょうか。長崎港から連絡船が通っていたので、新聞も届けられていたようです。この店は、張り紙などから察するに本屋さんのようです。
この写真を見てパチンコ屋だとすぐにわかる人は、ぼくと同世代か上の世代の人でしょう。昔、パチンコはこうして立って打っていたのです。玉は左手にまとめて持ち、親指で一つずつ台に入れていきます。それとタイミングを合わせて右手の親指でバネの付いたハンドルをはじいて打っていました。こんなやり方でも、熟練者になるとかなりのスピードで打つことができました。この写真のパチンコ台は、手元の感じからそのタイプのような感じがします。それにしても、ずいぶん繁盛してますね。島にはパチンコ屋の他にも、映画館、劇場、スナック、そして昭和30年ごろまでは遊郭もあったそうです。
お祭りもありました。大人たちが神輿をかついで、狭い坂道を登ってきます。これでは、練り歩くというわけにはいきませんね。木造の家は、三菱端島炭鉱の最高幹部である鉱長の家で、ベランダ付きです。幹部クラスの家は風呂もある、こうした立派な日本家屋だったそうです。軍艦島の木造家屋は、今ではすべて崩れ去り、まったく見ることができません。
島にある桟橋はドルフィン桟橋だけでしたが、他に炭鉱の資材などを運び入れるためのクレーンがありました。これは、おそらく坑道の壁などに使う丸太を陸揚げしているところだと思います。2001年に閉山した日本最後の炭鉱、池島炭鉱がまだ操業していたころ、その近くの海で写真と同じような木造船を見かけたことがあります。やはり、こんな丸太を満載して、熊本の方からトコトコ走って来ていました。
比較的、竪坑に近い坑道だと思われます。地下鉄と同じように、壁や天井はコンクリートで固められています。

操業していたころの池島炭鉱に入ったことがありますが、竪坑のエレベーターに乗ってから、切羽と呼ばれる採炭現場に到着するまで、1時間もかかりました。人車は2回乗り換え、動く歩道のようなものもありましたが、最後は歩きでした。池島では、閉山時の坑道の総延長距離が96キロもあったそうです。長崎市から五島列島五島市まで行ってしまう距離です。
児童公園
屋上保育園
昭和28(1953)年に65号棟の屋上に建設された屋上保育園。
最盛期には園児が220人を超える大規模なものであった。園内には室内庭園や滑り台などが未だに残っている。また大きめな厨房の跡もあるが、園児のご飯も賄われていたのでしょうか。
幼い子どもたちが、エレベーターもない10階まで毎日登園していたというのは、驚きです。
画像は、神社から見た65号棟ですが、中央岩盤途中から同棟に連絡通路が架かっているのがわかります。島内の子どもたちは。こういった通路や階段を使いながら通っていたわけです。
屋上庭園
世界最高の人口密度を誇り、狭い島に密集して暮らしていた島民にとって土地は有効活用をせざるをえない為に、また緑も無い事から屋上庭園が日給社宅の屋上に造られた。しかも子供達の教育用として畑から水田まで造られていたのである。現在は写真でも分かるように草が茂り名残がある。
またかつて、この日給社宅の屋上の一部には弓道場もあった。
端島小中学校



鉱業場
お祭り
X階段
67号棟は鉱員の為の独身寮で、トイレや洗面所は共同で1階には食堂もあったらしい。
この建物の正面に設置されているオシャレと言うのか、この独特のデザインの階段はX(エックス)階段とも
呼ばれ、軍艦島の代表的スポットの一つである。
3枚目の写真を見てもらえれば分かるかと思いますが、人一人がやっと通れる位の幅なのであまり
実用的ではない階段となっています。しかし、子供にとっては恰好の遊び場になっていたのでしょうか。
端島神社
社宅と社宅の僅かな間を上って行けるようになっていて、この先の高台にある端島神社まで行ける。この階段は子供達の遊び場所になったり、御輿を担いで神社から駆け下りる山神祭などが行われていた。
地獄段
体育館
この体育館は端島小中学校の横に、昭和45(1970)年に島内最後の建物として建設され、1階には武道場給食センターも併設されていました。当時、島内では閉山の噂が流れ鉱員が島から出て行くことがあり、噂を払拭する為にこれだけの施設を作ったとも言われているらしい。
昭和館(映画館・歌謡ショーのステージ)
端島銀座
端島銀座」と呼ばれたこの場所では青空市が開かれていて野菜・肉・魚の他に生花なども売られていたらしい。かつては青空市で賑わっていた場所も現在では社宅から崩壊した木材が落下してきていて悲惨な状態になっている。


その他の写真