ゲオルグ・ローゼンの身上書より

ゲオルグ・ローゼンの身上書より

オルグ・ローゼンのこの時代にあって数奇な運命は、一項を割くに値するであろう。

オルグ・ローゼン法学博士は1895年テヘランに生まれた。父親と祖父ローゼンは当時高名な中近東研究者で、両者とも外務省に職を得ていた。祖父はプロイセン、北独連邦及び帝国外務省に勤務、父フリードリヒ・ローゼンは1921年5月から10月まで帝国外務省大臣を務めた。

オルグ・ローゼンの二人の祖父はピアニストであり作曲家のイグナス・モシェレスの娘たちと結婚した。モシェレスはベートーベンの生徒であり後年は親友だった。

「ベートーベンの最後の手紙は」ローゼンは自伝に記している。「祖父に宛てたものである。ベートーベンの死の床に残っていた数通も然り。後世の人々がベートーベンの最期の数時間について知っている全ては、当時ロンドンに住んでいた曽祖父[イグナス・モシェレス]に宛てた1通の手紙による」

オルグ・ローゼンは1921年外務省に入省した。ヒットラーが政権を執ってからは「ユダヤ汚染者」に分類されていた。それでもしばらくは外務省で勤務していた。というのも、1917年に戦場に志願する為にポルトガルから帰国し、実際に西前線に参戦したからであった。しかしその後出世することなく、退職まで最初の役職に留まっていた。
1933年~1938年北京大使館の外交書記官として勤務、1936年に南京へ、1937年に漢口へ異動。一時期領事代理にも任命された。しかし1938年には休職に追い込まれ、その後国家公務員の身分を剥奪、退職。1917/18年の参戦の功績は認められ、給料は引き続き払い込まれることになった。外務省の承認を経て1938年末にロンドン移住。大戦勃発当初抑留されたが、1940年に米国移住に成功。

大戦中は幾つかの大学の教壇に立っていた。ドイツに残留した妻子は彼の恩給で暮らし、妻が空襲で死亡した後は、子供達の後見人に恩給が振り込まれた。外務省はどうやら、彼の置かれた境遇を少しでも軽くする為、あらゆる法律の合間を縫っていたようである。戦後帰国し、ドイツ連邦共和国外務省に入省、ロンドン大使館顧問を経て1956年モンテヴィデオのドイツ大使に就任、1960年の退職まで務めた。1年後に死亡。

オルグ・ローゼンは実直な人物であり、ドイツ愛国主義であった。思った事ははっきりと述べ、怒りっぽく、時々激昂することもあった。妥協を許さなかった。南京の日本軍相手には毅然とした態度を取り、外交的なジョン・ラーべと違って時には無愛想に振る舞った。ヒットラーの人種法に起因する差別に苦しんでおり、ラーべにその胸の内を打ち明けた。

「悲劇的な運命だ!」とラーべは書いている。この日、1937年11月27日、ラーべに心中を吐露した時、彼は既に知っていたのであろうか?この3日前に外務省から人事部長の署名付きで漢口の大使館に発送された電報の事を。

電報
(秘密暗号方式)
大使殿親展
ローゼンに慎重に次項の告知をして頂くよう。
非アーリア血統により、復職は不許可とする。休職移動が決定された。 プリュファー