南京日記1937年11月28日

南京日記1937年11月28日

昨日の大元帥との話し合いの結果をローゼン博士が報告。
質問1「防衛戦は市外に留められるのか、市内での更なる防衛戦の可能性は。」
回答「我々は両方の可能性に向けて準備をしている。」
質問2「最悪の事態となった時に市の治安を維持する責任者は誰か。どの行政管理が残留して暴徒に警察権を行使するのか?」

元帥又はタン将軍がこれに答えて「その場合は日本軍が治安維持の責任を持つ。」
要するにこう言う事だ。行政の責任者は誰も残らない。何万人もの民衆の安寧の為に己れを犠牲にする者などいないのだ!なんて事だ!神よ、ヒットラーの援助を!町が戦闘に巻き込まれたらどのような悲惨な事が起きるか、想像も出来ない。

ローゼン博士からは、漢口の大使から、総統に電報を送ったドイツ人は誰かとの問い合わせがあった事も聞いた。既にトラウトマン大使はローゼン博士の手紙を受け取った… 今日の昼のラジオでは、中立地帯について、何の報道もなかった。

シュペアリンクが、15時からスミス博士の所で始まる委員会会議の為に迎えに来た。そこでフィッチ氏が公式に委員会会長に、そしてHan Liwu氏が支那側の副会長に任命される。しかし、日本側からの正式な回答無しには、それ以上は進むことが出来ないのだった。

ミルス師が立ち提案をした。我々は間も無く支那の高官 ー 大元帥とタン将軍 ー に軍事的観点から、無血開城を進言し、南京防衛戦の再考を促してはどうかと。ハン・リウ氏は今の段階ではその様な進言はすべきではない、との意見を述べた。日本側から中立地帯設置を許可する回答をもらうまで待つ、という意見でまとまった。
16時半に指したる決議が成されることもなく散会した。全てが未決定であるから。

18時に英国文化協会でミーティング。郵便局委託責任者のリッチー氏が郵便局閉局を報告。手紙の投函はまだできる。時折郵便ポストから回収されるようである。リッチー氏はいらいらしているようだった。今迄大変良く機能していた彼の機関は今、瓦解しつつあった。

うわさによると、日本軍は蕪湖より60キロの地点におり、3日以内にはここに到着するそうである。これはあまり信用出来ない。と言うか、何かの間違いだと思う。
ミーティングでは、支那の文字が印刷されている大きな紙をもらった。これを扉に貼り付ければ、支那の不良兵士に纏わり付かれる事がない。今日、町に住むドイツ人軍事顧問の家が兵士どもに襲われた由。しかし、直ぐに片がついた。

今日私は、Ninhai Lou 5番地の新しい家に表札とドイツ国旗を掲げた。この城には名前を置くだけだ。元の家の庭では、目下3つ目の防空壕建設がたけなわである。
2つ目の建設は穴が水でいっぱいになり中止になった。
警察長官の王固盤は何度も、南京にはまだ20万人もの支那人が住んでいると説明した。彼は町に残るつもりなのか、の私の質問への答えは予想されたものだった。出来るだけ長く!ということは、彼も退去するつもりなのだ!