南京日記1937年12月15日

南京日記1937年12月15日

  午前10時に我々は関口海軍少尉の訪問を受けた。彼に、日本軍司令官宛ての我々の手紙の写しを渡した。
  11時には日本大使館員の福田氏が、我々とこれからの計画の詳細を話し合う為に訪れた。町の発電所と給水設備それに電話設備が再び機能することが、我々だけでなく日本当局の利益に適っていることを認識した。これに関しては我々と言うより、私自身が手伝える。
  ハン氏と私には、この3つの機関の関係が良く分かっている。だから、これらの設備を稼働させるように技術者や労働者を手配できると確信している。Bank of Communication内にある日本軍司令本部で福田に再び出会った。彼は現在の司令官の訪問時の通訳として、大きな助けとなっていた。
  昨日、12月14日には日本軍司令との連絡がつかなかったので、武装解除した支那兵士の処遇を明らかにすべく1通の手紙を福田氏に託した。その内容は次の通り。

  南京安全区国際委員会は、武器解除をした支那兵士の運命に大変狼狽しております。委員会は当初から安全区を支那軍を立ち入らせぬよう努力し、月曜日12月13日午後までは、この状況下でもその目的を果たしてきました。しかしこの時点で、絶望に落ちいった数百の兵士が我々に助けを求めて安全区に接近、立ち入るに至りました。
 
委員会はこれらの兵士達に、彼らに保護を保証できる立場にない事を率直に申し伝えました。同時に、彼らが武器を捨て、日本軍に完全降伏をするのであれば、我々の考えでは、日本軍の寛大な処遇が受けられるであろう事を説明いたしました。
  委員会は引き続き、日本軍が戦争捕虜処遇の法を厳守し、人道的な見地から元兵士達に恩恵を施すことを希望します。これらの捕虜は労働者として役に立つでしょう。彼らも、一市民としての生活に1日でも早く復帰できれば満足するものと思われます。
敬具
ジョン・ラーべ、委員長

  司令宛てのこの書簡と他の12月14日の手紙に対し、彼から今、次のような議事録に書き付けられた返信を受け取った。

議事録
 
南京日本軍参謀長との会合について (Bank of Communications)、1937年12月15日昼
通訳:福田氏
委員会員出席者
ジョン・ラーべ氏、会長
スミス博士、書記
シュペアリング氏、総監督官
1. 町にいる支那兵士はくまなく捜索される。
2. 安全区出入口には日本軍の歩哨が置かれる。
3. 一般人は早急に自宅に戻るべき事。我々は、安全区内の捜索も行う。
4. 武器解除した支那兵士の世話は日本軍とその人道的処遇に委ねられる。
5. 支那警察は警棒に至るまでの一切の武器不携行を遵守する限り、安全区内の巡回が認められる。
6. 委員会が安全区に貯蔵する1万タン(注)の米は、難民の食料として使用される。但し、我が軍兵士も米を必要としており、(委員会は)区内での米の購入を許可する事 (安全区外に貯蔵してある米についての見解は不明)。
7. 通信、電気及び給水設備は復旧されなければならない。我々は本日午後、ラーべ氏と共にこれらを視察し、適宜に処置する。
8. 我々は緊急に労働者を必要としている。明日より町の片付けにかかる。委員会の助力をお願いする。明日は100~200人の労働者必要であり、賃金も支払われる。

  我々が司令官と福田氏のもとを退出しようとした時原田将軍が現れ、我々の案内で安全区を視察する希望を述べた。我々は午後に下関の発電所を訪問する申し合わせをした。    
  午後の訪問には残念な事に間に合わなかった。日本軍の一隊が、武器を捨て安全区に逃げ込んで来た元兵士達を連行しようとしていたからだ。私はこの難民達を解放させようと、もう戦えない事を保証して委員会本部の事務所に戻った。ところが戻るや否やボーイが飛び込んできて、日本軍が戻り、あろう事か1300人もの難民を縛り上げた、との酷い報せを持って来た。私はスミスやミルスと共に彼らを解放させようとしたが無駄だった。彼らは百人ほどの武装した日本兵に囲まれ、縛られて連行されていった。銃殺される為に。
  スミスと私はもう一度福田氏を訪ね、この人たちを助けてくれるよう頼んだ。彼は出来る限り骨を折ってくれる事を約束したが、希望は大きくない。人々が処刑されてしまっては、日本軍の為に労働者を集めるのが儘ならなくなる点を指摘した。福田はそれに同意し、明日への希望を促した。全くもって惨めな気分だ。人々が家畜のように引っ立てられて行くのを見るのは辛いことだ。もっとも、支那軍も、済南府で日本兵捕虜二千人を銃殺したそうだ。
  日本海軍を通して、米国の砲艦、米国大使館職員を避難させたUSS Panayが日本軍の誤爆に遭い沈没した報せが入った。乗客2名が死亡:イタリア新聞通信員のサンドリ、それにMaypin船長のチャールソンだ。米国大使館のパクストン氏は肩と膝をやられ、スクワイヤーも肩を負傷。ゲイシーは脚を骨折し、アンドリュー少尉はかなりの重傷、ヒュー船長も脚を骨折した。
  その間にも、委員会内からも負傷者が出た。クリシャン・クレーガーが火を手にしたまま殆ど空になった石油缶に近付き過ぎて、両手に火傷を負ったのだ。彼は私からがっつり大目玉を食らった。ヘンペルは、彼のホテルが日本軍に完全に破壊されたと嘆いている。キースリングのカフェも残った物は殆ど何もないようだ。
 
注:1タン=60,5キログラム