漢口におけるスミス氏(ロイター)の講演に関する報告

漢口におけるスミス氏(ロイター)の講演に関する報告

外務省政治関係記録文書よりの出典。支那–日本 Pol VIII, 28, Bd.19.
 
  12月13日朝、日本軍は未だ町に現れていなかった。南町はまだ支那軍の支配下にあった。南門前で夜激しい戦闘が起き、戦死した支那兵士の数は千を超えた。
  12月13日未明に、支那軍と一般人が略奪を始めた。まず最初に食料品店が襲われ、一般家屋からも支那兵士が食料を持って出てくるのが見られた。だからと言って、支那軍が計画的な略奪を行ったと主張するのは間違いである。
  特筆すべきは南町の服飾店で演じられた場面だ。百人以上の兵士が店に押し掛け、既成のあらゆる種類の一般服が、奪い取る勢いで引き摺り下された。兵士達は最後の1銭まで費やしてこれらの服を買い、通りで着替えた。軍服は道路に脱ぎ捨てられ、彼らは一般人としてどこかへ潜伏していった。この何百人もの一般人が後に軍事学校や国際クラブに集結した。昼頃になってマクダニエル氏が漸く、南町に日本軍の巡回を見た。6人から12人の隊が注意深く警戒しながら、ゆっくりと本道を巡回していた。時々発砲の音が聞こえた。ここかしこの道端に戦闘で命を落とした一般人の死体があった。日本兵が言うには、逃亡の際に射殺されたという事である。日本軍の存在は、支那一般市民の間に安堵をもたらしたようだ。そしてthey came out ready to accept the Japanese if they would have behaved humanly.
  所謂安全区と呼ばれる場所では、流れてきた銃撃や榴弾によって百人程の支那人が死亡し、百人以上が重軽傷を負った。夜に日本軍は安全区にも乗り込んだ。約七千の武器解除された支那兵士が安全区の庇護の下にいた。彼らは軍事学校やその他の建物に収容されていた。安全区の警察は、南町から逃亡して来た何百もの支那警察官によって増強されていた。
 12月14日朝には日本兵支那一般市民に対して、まだ敵対的な態度は取っていなかった。昼頃になって多くの場所で、連隊標識を外した日本兵が6~10人の小集団を作り、家という家の略奪を始めた。支那人達が食料の略奪に留めていたのと違い、日本兵の前に安全なものは何もなかった。They have looted the city systhematically and thoroughly. 12月15日の私の出立まで、私や他の欧州人の監視によれば、支那人の家屋は全て、欧州人の家屋は大部分が、日本兵によって略奪されたのだ。家屋の屋根にはためく欧州の国旗は日本兵に下された。日本兵の集団が家庭用品を手に去って行くのを見た。彼らは掛け時計に、特別な愛着があるようだ。
  外国人の車からも、南京に未だ残っている限りにおいて、押収される前に国旗が引き裂かれた。日本軍は外国人の安全委員会からは車2台と何台ものトラックを押収した。キースリング&バーダーの店の前で私は、管理人の助けを借りて、国旗を奪い店を略奪しようとしていた多数の日本兵を追い出していたラーべ氏に出会った。下関では日本軍は400~500名の支那人を縛って連行した。そこに行こうとする欧州人は、日本兵に激しく押し留められた。
  12月15日に外国の通信員は日本軍から、日本海軍戦艦で南京から上海に移動する許可が出た。後になって、英国の戦艦でこの旅をする機会を得ることができた。我々は埠頭に集まるように命令された。出発が酷く遅れたので、我々はその時間をもう一度ちょっとばかりの調査に利用することにした。そこで我々が見たのは、日本兵に縛られ連行された千人程の支那人だ。彼らは広場で小さいグループに分けられ、銃殺に引き立てられていった。跪かされ、後頭部に銃弾を撃ち込まれた。百人程の処刑を目撃した所で日本軍の指揮官が我々に気付き、即刻退去を命令した。残りの支那人達の運命については、私は何も言えない。
  スミス氏は、南京に残留して隣人愛を示し、支那難民に心を砕く3人のドイツ人、ラーべ、クレーガー、シュペアリングの活躍に賞賛を惜しまなかった。