北から米の貨物船で脱出 米の敗北に喜びの戦慄…

北から米の貨物船で脱出 米の敗北に喜びの戦慄…

 朝鮮戦争は韓国大統領、文在寅ムン・ジェイン)一家の運命を変えた。文一家が、北朝鮮興南(フンナム)埠頭(ふとう)から避難の途についたのは1950年12月23日だった。

 米貨物船で北脱出
 その年の冬は米軍にも過酷なものとなった。6月の戦争勃発以降、反転攻勢に出た米軍は敗走を続ける金日成(キム・イルソン)を中朝国境に程近い北朝鮮の臨時首都、江介に追い込んだ。北へ向かって進軍する米軍第一海兵師団はしかし、江介に連なる長津湖付近で中国人民支援軍(中国軍)7個師団、12万人の兵力に包囲される。

 米軍の戦史上最も過酷な戦闘と記録されたこの戦いで米軍は3600人を超える死傷者を出したが、中国軍の包囲網を辛くも突破して興南(フンナム)にたどり着く。興南は南を目指そうとする避難民でごったかえした。
 「当時、興南一帯では米軍が原子爆弾を投下するというデマが広がった。そこで急いで避難の途についた人たちもいた」(ソウル在住の金民雨の証言) 

 米軍は貨物船に積んでいた武器をすて、興南埠頭(ふとう)に押し寄せてくる避難民を乗せ、撤収作戦を敢行した。
 船の上で文一家はクリスマスを迎えた。米軍はあめを一粒ずつ配るなどして不安と寒さに震える避難民を慰めてくれたという。
 文一族は、それまで代々北朝鮮北部の咸鏡南道(ハムギョンナムド)興南一帯で生活していた。文の父、ヨンヒョン(1920年生)は咸興市の咸興農業高等学校を卒業、興南市庁(現在の咸興市興南区域)で農業係長、課長として働いた。

 農業係長時代、ヨンヒョンは共産党加入を強要されたが最後まで拒否したとされる。
 避難後ヨンヒョンは、巨済島(コジェド)捕虜収容所で労働者として働き、文の母は鶏卵売りの行商をした。文の幼いころの思い出は、ほとんどが「貧しさ」にまつわるものだ。

 父譲りの読書好き
 少年時代の文は内向的だったようだ。「本を読むときが一番幸せだった。私の読書好きはお父さん譲りかもしれない」と文は振り返る。自叙伝で文は父についてこう記す。
 「父との思い出は多くない」。口数の少ない父とは会話らしい会話を交わしていなかったという。
 「たまに口にする言葉を聞くと父は社会意識が深い方だった。韓日会談(日本と韓国の国交正常化を目指した会談。朝鮮戦争中の51年から始まった)にはなぜ反対しなければならないかを近所の大学生に説明するのを聞いたことがある」

 文は「知らない間に父は私の社会意識、批判意識に影響を及ぼした。後になってわかった」と述べる。
 大学に入学した文は、当時の多くの韓国の大学生同様、民主化運動に情熱を燃やした。運動の先頭に立っていた文は75年4月に拘束され、執行猶予付きの懲役8カ月の判決を受けた後、8月に軍部隊に強制的に徴兵される。

 後に文は、「大学時代、私の批判意識と社会意識に一番大きな影響を及ぼしたのは、そのとき大学生たちがみんなそうだったように李泳禧(リヨンヒ)先生だった」と著書で振り返っている。
 民主化を熱望する知識人らによる雑誌『創作と批評』に掲載された李のベトナム戦争に関する連載を文は熱心に読んだ。

 「先生は、誰もが米国の勝利を信じて疑わない時期に米国の敗北と南ベトナムの崩壊を予告した」「(先生が書いた論文の)文字の行間から真実の勝利を確認し私は喜びの戦慄を覚えた」(自著「運命」より)
 米国の敗北を確認し喜びの戦慄を覚えたというくだりは、大統領選挙で保守系候補からの格好の攻撃材料となった。

 今回の大統領選で文氏と争った保守系の候補、洪準杓(ホンジュンピョ)は、「青春時代にそのような書物を読み、感動を覚えたということを問題にするわけではない。大統領になろうとする人間が、いまなお、そのような考えを持っているのが問題だ」と批判した。