安政南海地震(1854年) 内陸1.5キロまで達した津波 都司嘉宣

安政南海地震(1854年) 内陸1.5キロまで達した津波 都司嘉宣

徳島県小松島市の「旗山」(都司嘉宣氏撮影)
徳島県小松島市の「旗山」(都司嘉宣氏撮影)

 紀伊半島から四国にかけての太平洋沖合では、およそ100年間隔で巨大地震が起き津波が沿岸を襲ってきた。安政元(1854)年に発生したマグニチュード(M)8・4の安政南海地震でも、高知県中土佐町で波高16メートルに達するなど津波被害が大きかった。
 徳島県東部に位置する小松島市でも浸水被害があった。同県に伝わる「異事時変説」という古文書に記された津波発生時の様子はこうだ。「午後4時頃、大地震津波が襲ってきて大きな被害が出た。津波は田野村(現・小松島市)の旗山まで押し寄せてきた」
 旗山は、オーストラリアの砂漠にある世界的に有名な巨大岩山「ウルル」(英語名エアーズロック)のミニチュア版のように、広い水田地帯に、ぽつんとそびえる孤立した岩山だ。源平合戦の際に源義経が山頂に源氏の白旗を掲げ、軍勢の士気を高揚したという伝説が残っている。
 この位置を調べれば、津波の到達点と標高が判明する。さっそく旗山に赴き、麓の最も海に近い地点を調べたところ、標高1・7メートルであることが分かった。
 「なんだ、たった高さ1・7メートルの津波だったのか」などと侮ってはいけない。この地点は海岸線から約1・5キロの内陸部で、海など全く見えない地域だ。むしろ、こんな場所にまで津波が到達したことを驚くべきなのである。
 旗山の南東約3キロの同市赤石町には、豊浦神社がある。この周辺も全て津波で浸水したが、神社だけは被害を免れた。その状況が石碑に刻まれている。
 「安政元年に大地震が起き、高い津波で死んだ人は数が分からないくらいだった。だが、周辺の人々は、神社に集まって難を逃れることができた」
 試みに神社の境内の標高を測量してみると1・8メートルだった。神社以外は浸水被害があったことから、周辺一帯の津波高も、旗山と同じ1・7メートル程度だったとみられる。神社に逃げ集まった人々は、本当にきわどいところで津波の被害に遭わずに済んだのだ。

 神社の碑文は「神様が守ってくださる恵みの深さのおかげだった。後世まで、決して忘れないようにしなくてはいけない」と結んでいる。
 巨大地震津波は、途中に遮るものがない広大な水田地帯や砂州では、思いがけないほど内陸深くまで入り込む。そして、少しでも高い場所に避難するかどうかが生死の分かれ目となる。
 同様の環境に暮らす人たちは、この教訓を忘れず将来の災害に備えてほしい。
 (つじ・よしのぶ 建築研究所特別客員研究員=歴史地震津波学)