採算軽視、アジア高速鉄道計画が運ぶもの

採算軽視、アジア高速鉄道計画が運ぶもの
アジア・エディター 高橋徹

Asia Analysis
コラム(国際・アジア)
東南アジア
2019/2/21 5:50 日本経済新聞 電子版
2月27日に2度目の米朝首脳会談が開かれるベトナム。国際政治の駆け引きの舞台としてだけでなく、壮大なインフラプロジェクトでも世界の注目を集める。高速鉄道計画の「再起動」である。
再浮上するベトナムの高速鉄道計画は南北1560キロメートルを結ぶ(中部地域の拠点となるダナンの在来線駅)
再浮上するベトナム高速鉄道計画は南北1560キロメートルを結ぶ(中部地域の拠点となるダナンの在来線駅)
2つは無関係ではない。昨年6月の最初の米朝首脳会談への地ならしとなった、4月の文在寅ムン・ジェイン)韓国大統領との会談の際、北朝鮮金正恩キム・ジョンウン)委員長は「ベトナム式の改革を推進したい」と伝えたとされる。
ベトナムもかつては南北分断国家だった。1976年に統一を果たすと、86年の「ドイモイ(刷新)政策」で経済開放に転じ、旧敵・米国との関係改善を進めた。北朝鮮がお手本とする急成長のさらに先に、南北高速鉄道は位置づけられる。
現地メディアが報じたベトナム鉄道公社の計画では、北部の首都ハノイと南部の商業都市ホーチミンを結ぶ全長1560キロメートル。停車駅の数にもよるが、時速350キロメートルなら所要時間は最短で5時間強という。2020年に着工し、全線開通の見通しは45年。総工費は580億ドル(約6兆5千億円)超を想定する。
構想は2000年代初めに浮上した。06年、当時のグエン・タン・ズン首相と安倍晋三首相が共同声明に盛り込んだのを機に、日本の新幹線採用へ動き出した。ところが「浪費」「外国の言いなり」といった批判が噴出し、10年に国会で否決された。
2006年10月の首脳会談で、日本はベトナムの高速鉄道計画の支援を表明したが…(第1次政権時の安倍首相(右)と当時のズン首相)=ロイター
2006年10月の首脳会談で、日本はベトナム高速鉄道計画の支援を表明したが…(第1次政権時の安倍首相(右)と当時のズン首相)=ロイター
共産党による一党支配下で政府決定が覆される異常事態は、次期党書記長の本命だったズン氏に痛手で、16年の事実上の失脚へとつながった。
建設費を抑えるため、一時は時速200キロメートル以下の準高速への「格下げ」も検討したが、うやむやに終わった。グエン・フー・チョン書記長が国家主席を兼ねる盤石の権力体制を築いた政府は、今秋の国会に改めて高速鉄道計画を諮る方針だ。
ただし採算見通しは相変わらず心もとない。
まずは旅客輸送。ハノイホーチミン間に大都市はビン、フエ、ダナン、ニャチャンが点在するくらい。3分の1の500キロメートルしかない東京―大阪間に、横浜や熱海、静岡、浜松、名古屋、京都といった大都市や観光地が連なる日本の東海道新幹線とは事情が違う。
加えて各都市にはベトジェットエアなどの格安航空会社(LCC)が就航している。特にハノイホーチミン間は1日約50便が年700万人を運び、東南アジア最大の国内需要がある。ベトジェットの運航開始は11年。高速鉄道が構想された当初は飛んでいなかった。
貨物輸送はどうか。ベトナム統計総局によると国内物流は8割近くがトラック頼み。残りの大半は水運が担い、鉄道はわずか0.4%だ。専修大の池部亮准教授は「トラックと競合する存在として鉄道は魅力的だが、何も高速である必要はない。既存の在来線の強化を優先すべきだ」とみる。
高速鉄道は山を削り、谷に橋を架け、軌道を直線に近づける必要がある。レールや枕木に求められる強度・耐久性も高いため、車両や運行システムだけでなく、土木工事段階からコスト高だ。LCCとの競争上、運賃を高くは設定できず、採算確保へのハードルは高い。にもかかわらず、経済合理性を脇に置いて高速化を追い求めるのは、ベトナムだけではない。
バンコクを起点に3路線を建設するタイ、ジャカルタ―バンドン間を着工させたインドネシア、ムンバイ―アーメダバード間の整備を目指すインドなど計画が目白押し。ベトナムと同じく、いずれも「まばらな沿線都市」という泣きどころを抱えているのに、だ。
昨年5月に復帰したマレーシアのマハティール首相は、クアラルンプール―シンガポール間の計画を、財政圧迫を理由に20年まで凍結した。ただし白紙撤回を主張した当初に比べ、態度は軟化した。「ナジブ前政権の計画をいったん否定したうえで、計画を修正し、自身のプロジェクトとして改めて推進する気では」(建設コンサルタント)との見方も出ている。
なぜ高速鉄道なのか。世界で最初とされる1964年の日本の新幹線開業を皮切りに、欧米でも建設が相次ぎ、現在は20カ国・地域以上が持つ。アジアは韓国や台湾が導入済みで、いわば先進国への"通行手形"のような象徴性を帯びている。
中国の存在も大きい。08年に北京―天津間に初導入して以降、全土に路線網を広げ、今の総延長は2万キロメートルを超す。17年の1人あたり国内総生産GDP)が8600ドルとなお中所得国の中国に続けとばかり、高速鉄道計画の熱に浮かされるアジア新興国は、経済合理性より政治的なアピールが勝っている印象だ。だとすれば、準高速への格下げは、選択肢にはなり得ないともいえる。
問題は、中国と違い、アジア新興国の懐に余裕がないことだ。ベトナムの場合は官民パートナーシップ(PPP)方式を想定。580億ドルのうち国の拠出は8割にとどめ、残る2割は民間資金を充てる皮算用をはじく。
だが同国は法律でGDP比の公的債務を65%以下と定め、上限に近い現状では新たな政府開発援助(ODA)の受け入れもままならない状態だ。
また国際協力機構(JICA)が13年にまとめた報告書では、最も利用者が多い優先区間に絞ってみても「運賃収入によって運行費の回収は可能だが、事業費の回収はできない」と結論づけている。手を挙げる企業が簡単に現れるとは思えず、場合によっては周辺国と同様、中国マネーに頼る展開もあり得る。
将来の先進国入りへの切符として、時の権力者に向けて甘い匂いを放つ高速鉄道。政治的な思惑ばかりを乗せて走り出せば、財政悪化というツケを後世に残しかねない、究極のポピュリズム政策にも見えるのだが……。
=随時掲載
高橋徹(たかはし・とおる) 1992年日本経済新聞社入社。自動車や通信、ゼネコン・不動産、エネルギー、商社、電機などの産業取材を経て2010年から5年間、バンコク支局長。18年4月アジア・エディター。著書「タイ 混迷からの脱出」で16年度の大平正芳記念特別賞受賞。