その3

越後国糸魚川直江津との間に名立といふ駅あり。上名立下名立と二ツに分れ、家数も多く、家建も大にして、此辺にては繁昌の所なり。上下ともに南に山を負ひて、北海に臨みたる地なり。然るに、今年より三十七年以前に、上名立のうしろの山二ツにわかれて海中に崩れ入り、一駅の人馬鶏犬ことごとく海底に没入す。其われたる山の跡、今にも草木無く、真白にして壁のごとく立り、余も此度下名立に一宿して、所の人に其有りし事どもを尋ぬるに、皆々舌をふるはしていへるは、 名立駅は海辺の事なれば、惣じて漁猟を家業とするに、其夜は風静にして天気殊によろしくありしかは、一駅の者ども、夕暮より船を催して、鱈鰈の類を釣に出たり。鰈の類は沖遠くて釣ることなれば、名立を離るゝ事八里も十里も出て、皆々釣り居たるに、ふと地方の空を顧れば、名立の方角と見えて、一面に赤くなり、夥敷火事と見ゆ。皆々大に騒ぎ、すはや我家の焼うせぬらん。一刻も早く帰るべしといふより、各我一と船を早めて家に帰りたるに陸には何のかはりたることもなし。此近きあたりに火事ありしやと問へど、さらに其事なしといふに、みな●あやしみながら、まづ●目出たしなどゝいひつゝ、囲炉裏の側に茶などのみて居たりしに、時刻はやう●夜半過る頃なりしが、いづくともなく唯一ツ大なる鉄砲を打たるごとく音聞えしに、其跡はいかなりしや知る者なし。 其時うしろの山二ツにわれて海に沈しとぞおもはる。上名立の家は一軒も残らず、老少男女、牛馬鶏犬までも海中のみづくとなりしに、其中唯一人、ある家の女房、木の枝にかゝりながら海の上に浮みて命たすかりぬ。ありしこと共、皆此女の物語にて鉄砲のごとき音せしまでは覚え居しが、其跡は唯夢中のごとくにて、海に沈し事もしらざりしとぞ、誠に不思議なるは初の火事のごとく赤くみえしことなり。それゆゑに、一駅の者ども残らず帰り集りて死失せしなり。もし此事無くば、男子たる者は大かた釣に出たりしことなれば、活残るべきに、一ツ所に集めて後崩れたりしは、誠に因果とやいふべきあはれなることなりと語れり。 余其後人に聞に、大地震すべき地は、遠方より見れば赤気立のぼりて火事のごとくなるものなりと云へり。松前の津浪の時、雲中に仏神飛行し給ひしなんといふことも、此たぐひなるべしや。」
*註記・「其夜は風静にして天気殊によろしくありしかは」「ふと地方の空を顧れば、名立の方角と見えて、一面に赤くなり、夥敷火事と見ゆ」「各我一と船を早めて家に帰りたるに陸には何のかはりたることもなし」「其中唯一人、ある家の女房、木の枝にかゝりながら海の上に浮みて命たすかりぬ」「それゆゑに、一駅の者ども残らず帰り集りて死失せしなり。もし此事無くば、男子たる者は大かた釣に出たりしことなれば、活残るべきに」「大地震すべき地は、遠方より見れば赤気立のぼりて火事のごとくなるものなりと云へり」は太字ゴチック。*註記。「地方」は、「じかた」。海上から見て陸上の意。*註記。「夥敷」は、「おびただしく」*註記。●は、踊り字で「く」の縦長の字(名前を知りません)です。江戸時代の天明のころから、地震の前の「赤焼け」が知られていたことに驚いています。

さて、残るは、附録の部分、「地震と兵乱(其一)」「地震と兵乱(其二)」「旗本の門番安政の大地震を予知す」となりました。このうち、「地震と兵乱(其一)」は、『前太平記』からの引用、「地震と兵乱(其二)」は『源平盛衰記』からの引用、「旗本の門番安政の大地震を予知す」は、「濃尾震談」中からの引用です。 「地震と兵乱」は、地震が兵乱の前兆であるという逸話を紹介したもので、「地震の前兆」を述べたものではなく、また、ここに引用された『前太平記』と『源平盛衰記』については、いくつか活字本が出ていますので、内容の紹介のみに留めておきたいと思います。
地震と兵乱」(其一)は、承平四年(九三四)五月二十七日の地震の折、陰陽頭賀茂保憲にこの地震が何の兆しであるかを占わしたところ、「朝敵四夷に起り。年を累て兵革無止時(やむときなく)候」と申したので、諸社に祈祷をさせた、というものですが、「編者曰」として、平将門藤原純友の乱がこの後に起こっているという註記を付しています。
(其二)は、治承三年(一一七九)十一月七日の地震の折、陰陽頭の安部泰親が、この地震は世の中がまさに滅びようとする前兆で、「遠くは七日、近くは五日三日に御大事に及ぶべし」と、法皇も臣下の者も都から離れるように申し上げたが、十三日になっても異なる事もなかった。公卿たちは泰親が荒言を吐いたとして土佐への流罪を定めたが、十四日になって、平清盛が福原より上洛し、都は混乱に陥った、というものです。此の折、後白河法皇は、清盛によって幽閉され、多くの貴族は官職を奪われています。 それでは、『天災予知集』、地震の部、の最後となりましたが、「旗本の門番安政の大地震を予知す」を翻刻しておきます。

「旗本の門番安政の大地震を予知す(「濃尾震談」中より) 爰に二三千石を領する旗本の士人あり。其れが門番に抱へたる老人、十月二日の暮夜に暫く天を望み居たりしが、頓て人々に告げ知らせ「今宵は必ず大地震あるべし予て準備あるべし」と云ひて飯を炊き、豆腐●菜など取添へて馬場に莚を敷いて座し居りたり。他の人々は是を誠と信ずるもあり、又は笑ひ譏りて肯はぬも多かりけり。兎角の間に大地震となり、門番は傍を見るに邸内都て揺り毀たれ、死傷種々なり。主人の室は如何ならんと入りて見れば、是も亦大いに破れ火炉には物の落合ひて火燃着き、既に危ふき勢なれば、門番は声限りに人を呼び立て、水汲み来りて撲滅しけり。
後日主人門番を呼び「何とて汝は地震を前知したるや、汝微りせば此家焦土とならん」とて褒賞をぞ与へける。門番は拝謝して言ふ様、僕元より賤しき身にして文字は識らず、争で天地の変を知り候べき。但此身薄命にして弱年の昔より今老が身に至る迄、斯る地震に一度ならず二度ならず三度まで遇ひ候ひぬ。僕の故郷は越後三条にて、去る文政十一年大地震あり。家倒れ焼けて死する者数を知らず、命は助かり候へども家財農具残り無く焼失ひ。詮方なさに故郷をあこがれ出で、隣国なる信濃に移り住て味気無き年月を送り候ひしに、弘化四年二月信濃に大地震あり。折しも善光寺如来の開帳にて国々より参詣の人々夥かりしば、死人傷者も亦夥しかりしは今も語り伝ふる所なり。
初め三条にて博識人の申しゝは、凡大地震ある時は天色朦朧として近く見え、星の光常に倍す。又温暖なるもの也と聞きたるを忘れず。毎夜空を望めて星常の如くなれば心を安うして●ひしが信州の地震は二月にて余寒の強き例なるに、此頃温暖なるさへ常には変ると思ひしに、其の前夜より星の光大きくして、昂参の中糠星と呼で小星迄も鮮明に見え、鳶鳴き烏騒ぎ、雉子の声音大かた地震の兆と人々にも告げしが、果して其翌晩に大地震ありけり。
予て期したる事なれば吾身は恙なかりしも、家財は又悉く焼失ひ此所にも住難く、江戸へ参上りて斯給仕申し候ひつる也。然るに一両日より空の景色常に変り信濃にて有りし趣に似たれば、地震の前兆にもや有らんと申し候なりとぞ語りける。此老人が面りの経験いみじき事と、主人始めて皆褒めるにけりとかや。」
*註記。「十月二日の暮夜に暫く天を望み居たりしが、頓て人々に告げ知らせ「今宵は必ず大地震あるべし予て準備あるべし」と云ひて飯を炊き」「何とて汝は地震を前知したるや、汝微りせば此家焦土とならん」「隣国なる信濃に移り住て味気無き年月を送り候ひしに」「凡大地震ある時は天色朦朧として近く見え、星の光常に倍す。又温暖なるもの也と聞きたるを忘れず」「昂参の中糠星と呼で小星迄も鮮明に見え、鳶鳴き烏騒ぎ、雉子の声音大かた地震の兆」「然るに一両日より空の景色常に変り信濃にて有りし趣に似たれば、地震の前兆にもや有らんと申し候なりとぞ語りける」は太字ゴチック。
*註記。「豆腐●菜」の●は、偏が酉、旁が奄。音はエン。意味はしおづけ、つけもの。*註記。「故郷をあこがれ出で」の「あこがれ」は、居所を出てさまようの意。*註記。「●ひしが」の●は、うかんむりに、偏が爿、旁が未。「ヤスラひしが」というルビを付している。*註記。「昂参」のルビは「つきがさ」。『大漢和辞典』で「昂参」を、『日本国語大辞典』で「つきがさ」の項目を探すも不載。「昂」はスバル(プレアデス星団)の意で、「糠星(ぬかぼし)」は夜空の無数の星の意なので、「スバルのなかの小さな星まで鮮明に見えた」ということか、不詳。