南京日記1937年11月18日

南京日記1937年11月18日

  今日もChina-Pressの南京版は発行されなかった。印刷屋が逃げたようだ。一日中絶え間なく力車や大八車、自動車にトラックが荷物を山積みして町から出て行った。大抵は河に向かった。其処から沢山の船が、漢口その他の上流に逃れていくのだった。同時に北の方から新兵を率いた連隊が町にやって来た。どうやら、しぶとく町を防衛することにしたようだ。多くの兵士たちは大変みすぼらしく見えた。隊列の兵士は、履物さえ履いていなかった。皆疲れ切った顔で押し黙って行進していた。

  昨日の私は、少し前に北京のグレーテルとヴィリー(注)のアパートで荷物を纏めていたお母ちゃんのようだった。部屋から部屋に移動して、何をKutwo船で運び出すかを決めたのだが、その時になって、人はいかに自分の持ち物に執着を持っているか初めて気が付いたのだ。

  トランクの脇の床に置かれた物は全部階下へ、そして私達は夜中までかかって荷物を詰めた。今朝10時には最初の荷物が6個出来上がり、二台の馬車で港に運ばれていった。1個につき5ドルだった。ボーイのツンが運搬を請け負った。11時にChun Shang Mato社のランチが、Kutwo船に運んでくれる手筈になっていた。
午後にKunst & Albers社のジーゲル氏がトラックでやって来て、更に3個の荷物を乗せ、私の家に居候をしていたリッツ先生の5つのトランクも運ばれることになった。彼は、Spalatoに転勤になったのだった。

オフィスボーイのツンが夜7時になっても帰らないので、私は下関に行き、本来は午前11時に来るべきだったランチの到着に丁度居合わせることができたが、積み込みは大混乱していた。どのボーイも自分のマスターの荷物を最初に積み込んで貰おうと躍起になっていた。荷物やボーイが河に転落するのを防ぐ為に、私は「待つんだ!」と叫んで中に踊り出た。それはある意味成功だった。一人のボーイが、しつこく私に迫って罵詈雑言を吐いたのだ。
「どきやがれ!あんたには関係ねえだろ!俺は大使閣下の絨毯を運んでるんだぜ!これが最初に乗るんだよ!」

彼にこれ以上は喋らせなかった。頭ごなしに怒鳴って、手っ取り早く黙らせたのだった。
20時には、埠頭に集まっていた600個の荷物は無事に殆どランチに積み込まれた。
20分後に暗く土砂降りの雨の中、赤ん坊を連れた女性たちと荷物を整理して船に乗せた時、私たちは皆、カササギのように怒鳴り合っていた。21時にビショビショになって疲れ果てて帰宅し、夜中過ぎまでトランクに詰め込めるだけ荷物を詰め込んだ。

注 :グレーテルとヴィリーはラーべの娘と夫。ドイツに帰国していた。